見出し画像

第18回

 相変わらず、思わずカメラを回したくなるような表情の千紗を見ながら、尚吾は呟く。

「やっぱ大事だよな」

 本物の料理をたくさん食べなさい。

 質のいいものに触れろ。

「なんか言った?」と、千紗。

「いや、なんか、俺らが今いる環境って、すごくありがたいんだよなと思って」

「何いきなり、こわ」

 口をナプキンで拭く千紗は、この春から「本物の料理をたくさん食べなさい」と自伝に書き残したまさにその人のもとで働いている。

 目白駅から北西の方角に広がる高級住宅街、その中にひっそりと存在するフランス料理店『レストランタマキ』を営む玉木曜一(たまきよういち)シェフは、千紗の憧れの人であり、千紗が専門学校時代に最高賞を受賞した「調理師養成施設調理技術コンクール全国大会」の審査委員長を務めた人でもある。卒業後、念願の玉木シェフのもとで働けることが決まったとき、千紗はぼろぼろになるまで読み込んでいた自伝をもう一冊買ってきた。そして、いつでも読み返せるよう、古いほうをキッチンの戸棚の中に仕舞っていた。

【自分の店が二十年続いたら、新人をどんどん雇うと決めていました。自分がかつてフランスに修業に行ったとき、就労ビザもない中リスクも込みで働かせてくれた二ツ星の店がそういう方針だったんです。自分も、お金をためて海外に出たい若手や、本場へ行く前に最低限の経験を積んでおきたいと考えている新人たちにチャンスを与え、次世代の底上げに貢献したいと思っています】――貸してもらった自伝でそんな記述に出会ったとき、この考え方は鐘ヶ江にも通ずるところがあるな、と尚吾は思った。

「尚吾の言いたいこと、わかるよ」

 あっという間に太刀魚をきれいに平らげた千紗が、うっすらと瞳を潤ませている。

「こうやって、食べてみたかったものを食べることが仕事に繋がってる状況、ほんと幸せだなと思うもん。毎日玉木さんが料理してるところ間近で見られるだけですごいことだし、もっと言うとキッチンの道具ひとつ取ってもこれまでとは全然質が違う感じ」

「だよな」

 尚吾は、思ったよりも大きな声が出たことに、自分で驚く。

「俺、この前のロケで、ホテル戻っても浅沼さんの部屋にみんな集まってるの、感動したんだよ。撮影が終わったシーンについてずっと議論しててさ、これまでは俺がいつも一番考えてて、そのうち周りはバイトの時間とか気にし始めるみたいな感じだったから。紘もあんまり悩むタイプじゃなかったし、とにかくみんな同じ熱量で同じ方向目指して走るってこんな感じなんだって思ったっていうか」

「うんうん、超わかる」千紗が小気味よく頷いてくれるので、尚吾の口は止まらなくなる。

「鐘ヶ江監督ってスケジュールの組み方も作品に影響するって考えの人で、俺、そんなのも初めてでさ、どういう順番でどのシーンを撮っていくかで演者の心の持ちようが変わるからって、ほんとにいつも作品主体で、スタッフも全員そう思ってて」

 ウェイターが、尚吾がほんの一呼吸おいたタイミングで、見事に皿を下げていく。

「編集作業もすごくてさ、人の声と雑音のバランスをずっと細かく調整してて、ほんとにそれだけで台詞の聞こえ方も全っ然変わってくるんだよな。後から音だけごっそり録(と)り直してるところも想像以上に多かったりして、でもそんなこと観客は絶対わからないようになってて」

 質のいいものに触れるどころか、全方位、囲まれている。

 日々、その歓(よろこ)びに気づいては、真上に駆け出したくなるほど嬉しくなる。そして、そんな歓びを明かしたところで「そうじゃない人の気持ちも考えてください」なんて口を尖らせず、互いに称(たた)え合うことができる千紗のことを、誇らしく、大切な存在だとつくづく感じる。

「ほんとに、本物の人たちの中で学ばせてもらえる環境にいられるのって、最高だよね」

 千紗はそう言うと、ちらりと厨房(ちゆうぼう)のほうへ視線を飛ばした。メインを終え、デザートが出てくるのを待ち遠しく思う心がそのまま見えるようだ。

「それで、前話してた直属の上司の人、占部さんだっけ、とはうまくいってるの?」

 そう尋ねられ、尚吾は、浅沼の部屋へ誘い出してくれた占部の姿を思い浮かべる。

「占部さん、めちゃくちゃいい人だったわ」

 鐘ヶ江組に入って最初の二週間ほどは、鐘ヶ江にいちいち口を出し進行を止める占部の存在に、尚吾は戸惑っていた。千紗に、直属の上司的な存在がかなり面倒な人かもしれないと不安をこぼしていたのだ。

「いちいち進行止めるってことこそが監督補助の役割なんだってやっとわかったよ。だから、むしろめちゃくちゃちゃんと作品のこと考えてる人だった」

「そうなんだ」

 千紗がそう呟いたとき、尚吾の背後からデザートの皿を持ったウェイターが現れた。ピンと張った背筋はまるで矢が放たれる直前の弓のようで、ヨーグルトの爽やかな香りも相まって期待感が募る。

「それどころか、占部さん、ものすごく色んな映画観てる人で、とにかく何でも知ってるんだよ。海外の昔の映画とかにも詳しくて、これまでじいちゃんとしか話せなかった作品のこともがっつり話せたりして、映画評もめちゃくちゃ読み込んでてさ、『日刊キネマの映画評』とか俺と同じくらい覚えてて、そんな人初めてでほんと驚いた」

「あー、尚吾がいつも載るのが夢だって言ってるやつね」

 日刊キネマとは、映像業界に特化した情報を発信しているニュースサイトだ。日々更新され続けているトピックスは国内外問わず最先端のものばかりで、ただ発表された情報を並べるだけでなく独自の分析や考察が織り込まれている記事は業界内でも評判が高い。

 その中でも、連載『日刊キネマの映画評』は映画ファンの間で注目度が高く、ここに取り上げられるというだけで、幾つかの篩(ふるい)を通り抜けた作品だというお墨付きが得られる。さらに、星四つ以上の評価がついていると観客動員にも影響があるため、そのような作品は劇場の関係者が上映回数を増やしてくれたりする。この連載は、良質な映画を知ることができる数少ない場であり、映画監督を志す者ならば誰もが取り扱われたいと思っている場のひとつだ。

「で、もっとびっくりしたのが、マジかって感じなんだけど、俺が学生時代に撮ったやつも観てくれてて」

 自分の話す速度に引っ張られるように軽快なリズムでスプーンを口に運びながら、尚吾は続ける。

「そんなの観られてると思ってなかったからちょっと恥ずかしくもあるんだけどさ、しかも、鐘ヶ江組に入ってくるのがどんな奴なんだってことで観てくれたわけじゃなくて、一回だけやった中央シネマタウンでの特別上映に来てくれてたらしいんだよ。ほんとびっくりだよな、全然気づかなかったし、って当時は気づきようがないんだけど、まさかあそこに占部さんがいたなんてマジで」

 びっくり、と言いながら、尚吾は、その事実を初めて知ったときの衝撃を思い出す。浅沼の部屋に集まって話している最中、尚吾の演出案が採用された話題になったとき、占部が「あのボクシングの映画も、そういう細かい演出が光ってたもんな。大きなスクリーンで観た分、より細かい技が利いて観えたもん」と言ったのだ。

 ボクシングの映画ってもしかして『身体』のことですか、ていうか大きなスクリーンで観たって一体どういうことですか――状況を呑み込み切れていない尚吾の前で、占部はこう続けた。

「ボクサーのパートとコンビニ店員のパート、もう絶対違う人が撮ってるじゃんっていうのは丸わかりだったんだけど、それがよかったんだよな。ボクサーのほうは人間そのものに興味があるやつが心の赴くままに撮って、コンビニ店員のほうは映画自体に興味があるやつが細部にこだわって撮ってる感がすごくて、その良さがどっちも感じられる作品って意外と少ないんだよ。特にお前が監督したコンビニパート、カット割りとか音の繋ぎ方とか、プロのそれだったと思う。観ながら、ん?って引っかかるところが全然なかった」

 占部は『身体』の感想を、こう締めくくった。

「神は細部に宿るって感じがした」

第17回 / 連載もくじへ / 第19回

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!