見出し画像

第16回

 尚吾は、ボクサーパンツのみを身に着けた状態で、ドライヤーをオンにする。まるで本番が始まったときの鐘ヶ江のように、スイッチひとつでエンジンが全開になる。

 監督補助の仕事内容における一つ目の特殊性は、とにかくどんな工程でも監督のすぐそばにいること、だ。プロデューサー、デザイナー、録音技師などの既存の役職は、それぞれ企画段階、撮影中、編集期間など、監督の側近的なポジションを担う工程がとある一つの作業に特化していることが多い。そのため、まずはその分野においてスペシャリストであることが求められる。だが監督補助は、要求される職能が異なる全工程において、監督の最大の理解者であり、相棒でいなければならない。監督が選択を悩んでいるときは議論の相手となることは勿論、監督自身が気づいていないような落ち度や改善点を事前に見つけ、その都度指摘することを求められるのだ。

 それはつまり、撮影のスケジュールを止めることを意味する。

 巨大な獣が耳元で呻(うめ)いているようだ。ドライヤーを揺らしながら、尚吾は髪の毛を乾かしていく。このロケが終わったら、とりあえず、美容院に行きたい。これまでは、髪の毛が伸びてきたことをなんとなく気にし始めてしばらくしてから美容院に行っていたのに、今ではふと気づけば限界値といった具合だ。こんなにも仕事以外のことに気が回らなくなるならば、四月になる直前に思い切り短くしておくべきだったかもしれない。

 ドライヤーを持つ手が疲れてきたので、少し下ろす。下から吹き上がる熱風に、伸びた前髪がぶわりと舞う。

 映画、ドラマ、CM問わず、映像作品を生み出すにあたり、スケジュールを守る能力というのはとても重要だ。それは納期を過ぎるとクライアントが困るから、なんて単純な話ではなく、作品の規模が大きくなるにつれて、一日スケジュールが延びると人件費だけで巨額の追加費用が必要になるからだ。また、宿泊延長の手続きや撮影許可の再申請など、新たに発生する業務も存外多く、撮影スケジュールの変更というのはあらゆるスタッフにとって悪魔の呪文のような響きを持つ。

 だが監督補助に求められているのは、スケジュール通りに制作を終えることではなく、作品の質を最大値にまで引き上げることだ。

 助監督を始めとするスタッフがスケジュール通りに撮影が進むことに全力を注ぐ中、監督補助だけは“スケジュールの都合”という、作品の質の低下を許すときに頻出する甘い言葉を絶対に発してはならない。いくら時間が押してしまいそうでも、一度立ち止まるべきと判断したならば、“スケジュールの都合”という名のモンスターに手綱を預けそうになっているチームに向かって「ちょっと待ってください」と指摘しなければならない。周囲のスタッフにどれだけ嫌な顔をされようが、その役割を求めているはずの監督にさえ眉を顰められようが、それが仕事なのだ。

 今日最も長く撮影が止まったのは、國立彩映子への演出に対して占部がストップをかけたときだった。ラストシーン、恋人と別れた女性が、新たな服を身に着けていることで心が晴れやかになっていることを表現するための演出。結果的に、あそこで話し合いを挟んだのは英断だったといえるが、周囲からの「細かいことはどうでもいいから、もう早く撮ってくれ」という圧は、なかなか厳しいものがあった。

 だけどあのとき、自分は確かに幸福感を抱いてもいた。手元の獣をもう一度振り上げながら、尚吾は思い返す。

 髪の毛がしっかり乾いたことを確認し、ドライヤーのスイッチをオフにする。すると、コンコン、と、ドアがノックされていることに気がついた

「やっぱシャワー浴びてたか」

 慌てて服を着てドアを開けると、そこには占部が立っていた。「何度か連絡したっつの」と話す顔は、すでに少し赤い。

「浅沼さんの部屋でみんなで飲んでるんだけど、お前も来いよ」

 鐘ヶ江組の常連、数々の監督の現場を渡り歩いていたベテランスクリプターである浅沼由子(ゆうこ)は、とにかく酒が好きだ。酒が入ると、正確にストップウォッチを刻んでいるときとは打って変わって、「良い映画撮る監督ほど普段何言ってんのかわかんないし、プライベート気持ち悪い」とか、「あの監督は偉ぶってるけどほとんどゴーストが脚本書いてる」とか、現場のゴシップをガンガン放ちまくる。そのおかげでスタッフ同士の距離は縮まったりするのだが、いつも浅沼以外の全員が翌日の仕事に支障をきたすほど飲まされるので、被害者の会も結成されつつある。

「すみません、すぐ行きます」

 尚吾は、自分が少し早口になっていることから、やはり占部に対して若干の気まずさを抱いていることを自覚した。

「なんか追加で買っていったほうがいいものとかありますか?」

「いや、もう浅沼さんがかなり買い込んでるっぽいから大丈夫」

 監督補助を務め始めてもうすぐ三年になる占部は、尚吾と同じくあまり酒を飲まない。その代わり、飲み会の席では、ひとつの議題に対して深く長く話すことを好む傾向にある。

「今日の最後の話し合いの続き、酒抜きでもっとちゃんとしたいしな」

 占部はそう言うと、「403号室な。ちょっと俺コンビニで煙草買ってくるから」と、エレベーターホールのある方向へと歩き出した。

 尚吾は、「わかりました、ありがとうございます」と、占部の後ろ姿を見つめる。

 占部のストップにより話し合いの場がもたれたラストシーンの演出。最終的に鐘ヶ江が採用したのは尚吾の案だった。

 そのとき、尚吾は、占部の顔を見ることができなかった。

 バスルームに戻り、先輩の部屋へ行ける程度にぼさぼさの髪の毛を落ち着かせる。監督補助として提案した演出が採用されたのは、今日が初めてだ。それはつまり、占部の提案が退けられたという意味でもある。

 だけど占部は、「もっと話したい」と言ってくれている。尚吾は、角を曲がった背中の残像を視界の中で溶かしながら、しみじみ思う。

 こういう環境を、自分は求めていたのだ。

 作品の質を上げるためにはどうすればいいのか、撮影が終わった後もずっと考え続けている人たちばかりの世界。かつて自分が思われていただろう「考えすぎだ」なんてことを、自分ではない誰かに感じてしまうような場所。そこにいるだけで自分自身の質も引き上げてもらえるような、本物の人たちしかいない空間。

 緩む口元を抑えきれず、尚吾はルームキーを持ち出すことも忘れて403号室へと向かった。

第15回 / 連載もくじへ / 第17回

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!