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いつか私の包丁に深みは出るのだろうか(後編)【毎日note】#63

こちらの続きです↓


お母さん、僕切りましょうかと声をかけると、いい?ごめんね、と言いながらまな板の前を譲ってくれた。差し出された少し小ぶりの出刃包丁の柄を握ると、使い込まれてしっとりと穏やかな木の質感が、右手の平にひたり、と収まった。(中略)大丈夫?ーはい、やっぱり硬いですねと話をしながら、握りこぶしで峰を叩くとドスンと切れた。心地よい切れ味だった。お母さんの手によく馴染んでいるであろう愛用の包丁だけれど、僕の手を拒むようなところは少しも感じなかった。料理に対する心尽しが、形になって手の先に現れているような包丁だと思った。
http://uonofu.sblo.jp/article/178799840.html より引用

魚譜画家・長嶋祐成さんのギャラリーブログから引用させていただいた上の文章は、長嶋さんが奥さまのご実家に帰省されたときに、立派過ぎるまるごとの真鯛を前に、どこから包丁を入れようか迷うお姑さんを手伝うシーンだ。

まずグッときたのは「まな板の前を譲ってくれた」。「手伝ってあげている」のは長嶋さんなのに、長嶋さんはお姑さんに「譲ってもらった」という。もうそこからお義母さまへの敬意が伝わってくる。

すごいなあと感じ入りながら読み進めると、長嶋さんが手に取った出刃包丁の感触と、手への包丁のなじみ方や切れ味から感じ取った、お義母さまのこれまでの料理との向き合い方に、私はハッとなった。

お母さんの手によく馴染んでいるであろう愛用の包丁だけれど、僕の手を拒むようなところは少しも感じなかった。料理に対する心尽しが、形になって手の先に現れているような包丁だと思った。

「料理に対する心尽し」。それはそのまま、お義母さまの「家族への心尽し」なのだろう。

そうか。包丁の刃から、菜箸の先から、指先から、まいにちまいにち、何年も何年も、紡いできた家族への静かで穏やかな愛は、料理だけでなく、使いこまれた道具にまで宿り、他人(長嶋さんは結婚して家族になったけれど、この奥様のご実家の歴史と対比して、あえて「他人」と表現する)にも伝わるものなのだ。たとえば包丁の持ち手のしっとりとした手へのなじみ方や、切れ味となって、伝わるほどに積み上げられるものなのだ。


うわあ、かなわない。


長嶋さんが、奥さまの家族の長く豊かな歴史を読みとるすてきな表現を読んで、私は絶望的な気持ちになる。

長嶋さんの表現のすばらしさにも打ちのめされるけれど、それよりも、私は、私が使う包丁にそんな深みを与えることは、到底無理だと、そう思えて絶望したのだ。

家族をつくり家庭を営むというのはこういうことなのかと理解するとともに、自分がそれを望むのか望まないのかを改めて考えさせられた。

「料理に対する心尽しが、形になって手の先に現れているような包丁」

私の包丁には、こんな手ざわりや深みは出ないだろう。それがどうしても悲しいことのように思えて、深みの無い人生にしかならない気がして、結婚や子どもを望まない自分から罪悪感をぬぐえない。


いつも、思う。

さみしい、人恋しいと感じるとき、いやでも、私はそれと引き換えにこんなに自由なのだからと。

私はひとり暮らしで、基本的には自分のためだけに料理をする。それすらも、自分だけだと思うといい加減でおざなりになることが多い。

でも料理は好きだ。今は、他にやりたいことが多すぎて、料理の優先度が下がっているというだけで。

いつか、そんな私のためだけに働いてくれた包丁が、私の手だけになじむ包丁が、愛しく思える日が来るのだろうか。


せめて、たとえ自分のためだけでもいいから、もう少し「心を尽くして」料理をしようと思った。2週に一度、月に1回でもいいから。

それから、お正月には石垣島の家族のために料理をしよう。

その前に、そろそろ、釣った魚をさばく出刃包丁を買おう。薄刃の三徳包丁に、ずっと無理をさせてきたから。




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