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いつか私の包丁に深みは出るのだろうか(前編)【毎日note】#62

昨日に引き続き、魚譜画家・長嶋祐成さんのお話になる。今回は、長嶋さんが画家であることは、いったん横に置かせていただいて、あえて「文筆家」としての長嶋さんの文章に感じたことを書きたい(ただし文筆家とは私が勝手にそう思っているもので、長嶋さんが自らそう名乗られているわけではない)。

私は昨日、長嶋さんの、画家として海の生物たちを見つめる眼差しの鋭さややさしさ、その才能に嫉妬し自分の甘さを思い知る、といったことを書いたけれど、それ以上に、長嶋さんの書く文章を前に打ちのめされずにはいられなかった。最近、色々な人のエッセイやノンフィクションなどを読んでいるけれど、作家でも学者でもない長嶋さんの文章が誰よりも、私に強烈な憧れと悔しさを焚きつけた。

長嶋さんは「ギャラリーブログ」と称して、魚や貝やヤドカリなどの水生生物を描いた作品を、700字前後のエッセイとともに紹介されている。どの文章も、それぞれの生き物の豊かな表情と生態、そして長嶋さんとその生き物とのエピソードが描かれていて、小さな物語を読むようでとても楽しいのだけれど、上にリンクを貼った「マダイ」に添えられた文章を読んで、私はその意味を理解するにつれ、ゆっくりと泣けてきてしまった。

ぜひ、短いのでまずは全部読んで頂きたいのだけど、私が心揺さぶられずにはいられなかったのは、以下の文章だ。引用させていただく(ちなみに文中の「お母さん」とは、長嶋さんのお姑さんのことだ)。


お母さん、僕切りましょうかと声をかけると、いい?ごめんね、と言いながらまな板の前を譲ってくれた。差し出された少し小ぶりの出刃包丁の柄を握ると、使い込まれてしっとりと穏やかな木の質感が、右手の平にひたり、と収まった。(中略)大丈夫?ーはい、やっぱり硬いですねと話をしながら、握りこぶしで峰を叩くとドスンと切れた。心地よい切れ味だった。お母さんの手によく馴染んでいるであろう愛用の包丁だけれど、僕の手を拒むようなところは少しも感じなかった。料理に対する心尽しが、形になって手の先に現れているような包丁だと思った。


長嶋さんの奥さまのお母さんへの尊敬と、長嶋さんのやさしさに満ちたこの文章を読んで、私は視界が滲むのを感じながら、直感的に思ったのだ。

私の包丁に、こんな深みは出ないだろう、と。


後編に続きます。

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