「カサンドラ症候群」についてASDの私が思うこと
11/20日(水)付の読売新聞大阪版に「カサンドラ症候群」について取り上げた記事が掲載され、Twitter(現X)上で少し話題になった。
ASDの診断を受けている私にとってこの言葉には思わず身がすくんでしまう。「あなたと関わったせいで病気になった」と言わんばかりの暴力的な言葉が、あまつさえ一定の認知度を得てきているのだから。この言葉を目にするたび私は「生きててすみません」と思う。
当該記事の取材を受けていた精神科医はTwitter上で「カサンドラ症候群」とはお互いの異文化コミュニケーションスタイルを理解するための概念だと、建設的なものという意味合いを込めて解説していたが、正直私たちを舐めていませんかと思う。正式に認められてもいない病名を振りかざされて全く傷つかずに「はいわかりました」と言えるASDがいるか。もし学校で「あなたのせいで病気になった」などと言えばすぐ教師がすっ飛んでくるし、そのような言い分は通じないだろう。
なぜ鬱や適応障害といった既存の言葉を用いるのではいけないのだろうか?「カサンドラ症候群」の差別性は、私が検査・診断を受けた少なくとも2年半前からすでに指摘されていた。にもかかわらず現在もなおこの言葉が簡単に使われ続けているのは、ASD当事者が感じ、訴え続けている被害が社会でないがしろにされていることの証左ではないか?「異文化コミュニケーションを理解する」という目的は、ただ私たちが受ける抑圧から目を逸らさせるためのレトリックでは無いのか?
そもそも「カサンドラ症候群」の語源であるギリシャ神話のカッサンドラーの物語は、アポロン神に予言能力を与えられるもその能力によって、アポロン神の自分に対する愛が冷める未来を予見し、アポロン神を拒絶したところ「カッサンドラーの予言を誰も信じない」呪いをかけられる…というものだ。コミュニケーション上の齟齬を「私が正しいはずなのに、誰からも理解されない」という意味の言葉として用いるのは適切ではない。コミュニケーションの場は、予言のような客観的な真実によって正解が決まるのではなく、お互いの性格や特性に基づいてすり合わせるものであるからだ。
だから「カサンドラ症候群」は、コミュニケーションの場で「自分の方が正しい」「あなたが間違っている」という本来相応しくない姿勢を助長する側面があると思う。(ここでは詳しくは触れないが、今外国ではASDと「認識的不正義」を関連づけた研究が登場している)
実際私も、自分のASDを知る相手から「特性によるものかどうかはわからないが、とにかくこの行動を直せ」と言われ、自分の困りごとを伝えるための概念が相手の社会的正しさを誤認させる概念へとすり替えられてしまった経験がある。(特性かは知らんけどとにかくこうしろなんて、「俺の言うことを聞け」的なモラハラでしかないですからね。しかもこれ、私自身のためではなくて相手のプライドのためだったし。)
想定されている人間関係が主に「ASDの傾向がある男性が、定型発達の女性に被害を与えている」という形に限られているのも問題だ。ASD女性に目を向ければ、男性から性被害やハラスメントを受けやすいのはよく聞くし、診断済みのASDが未診断の発達障害の傾向がある者に悩まされているという事例はある(会社での私がそうです…)。そのような人間関係も等しく困りごとを抱えているはずなのだが、夫婦関係や恋人関係ほどには「カサンドラ症候群」という言葉は用いられず、焦点が当てられていない。元の神話が結局は痴情のもつれ話だからだろうか。
こうも思う。「カサンドラ症候群」が一定の認知度を得てしまうのは、ニューロダイバーシティ(神経多様性)の考え方があまり浸透していないからではないか。ニューロダイバーシティには私たちの神経はそれ自体として尊重されるべきものだという包摂的な主に教育現場での方針で、このような意味が込められている。ASDの診断名自体、そのSは“spectrum”(連続体)であり、これにはASDの特性はみんなが多かれ少なかれ持っているもので、ASDと非ASDの間に明確な境界線はないことを意味している。
これは全くの主観になるが、国内で企画・出版される発達障害に関する書籍や就労移行支援のウェブサイトにおいても、神経多様性という考え方は外国のそれほど採用されていない。とにかく治すべきもの、自己理解して対応すべきものという強迫的な印象さえ感じる。
また、発達障害がある種の「商業コンテンツ化」しているのもよりフラットな理解がもたらされない一因だと考えている。「無関心」「こだわりが強い」「心がない」といったエンタメ用に誇張された言葉が並んだ一般書、あなたも見たことありませんか?
つまり、私たちがASDを知る中で触れる情報がすでに差別的であること、これが一番の問題なのだと思う。身近にASD当事者がいる人は、そのような情報を取り込んでそのような目線で相手を見てしまうし、ASD当事者である私たちは自らを差別されても仕方ない存在として自分を見てしまう。Twitterのいわゆる「発達界隈」は強烈なセルフスティグマに塗れており、ASD当事者、身近な人のASDに悩まされている人はできれば目に入れず自分の心を守ってほしい。私は自己受容の段階で発達界隈にいたことで一度心を壊した。
私はASDの特性によってコミュニケーションに齟齬が生まれる事実があることを否定するわけではない。だが、「カサンドラ症候群」という問題含みな概念を使い続けることが、本当に身近なASDと良好な関係を維持するために必要なのかは再考してみてほしい。本人がいない場所で使うならまだしも、私たちだって人間だ。
そして、ASDについて知ろうと考えている人はできれば海外翻訳の書籍や、学術的な色が強い書籍に触れてほしい。ASDについて知ろうとすることは私はとても素晴らしいことだと思うし、その思いが粗悪な情報に辿り着いてしまっては大変勿体無い。学術本となると結構お値段が張るので、ぜひ図書館も利用していただければと思う。
最後に、私が読んできた本で比較的手が届きやすいもののリンクを貼ります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ASDと非ASD、加害者と被害者といったわかりやすい二項対立にとらわれず、神経の違いを超えた私たちの関係が良いものであることを切に願います。