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国際浪漫、移動体育館 【玩読版「思い出のプロレス会場総選挙」スピンオフ】

いよいよ年に一度すら更新しないnoteになってきました。いつの間にかnoteのロゴが変わっているし、微妙に機能もアップデートされていて管理画面で面喰います。


「思い出のプロレス会場総選挙」をやってみた

さて。こちらのnoteをほったらかしている間に取り組んでいたこともさほどないんですけど、強いて言えば「思い出のプロレス会場総選挙」という得体の知れない総選挙を密室(カテプロ)で行っておりました。TVチャンピオンの「選手権」のように、すぐに「総選挙」と付けたがっているわけじゃないんですが、こう付けると投票が増えるかなーと。
要は「ごちゃごちゃ言わんとどの会場が一番人気あるか決めたらええんや」ってことと「その会場での思い出をごちゃごちゃ言って聞かせてくれ」ってことです。

Podcast放送一覧

カテプロさんで放送された当企画の一覧です。下の方が古い順です。ちょっと多くて恐縮なんですけども、アーカイブ代わりにも一応。新しい順。

思い出あれこれ

半年ぐらいやっていたのでマジで多いですね。紹介しておいてなんですが、イチから聴いてられないですよねこりゃ。申し訳ありません。総投票数は確か150以上200未満ってところでした。一位は大方の予想通り後楽園ホールで18票、二位は渋谷クラブatomで6票…と数のバランスを見てお分かりの通りだいぶバラけています。
会場を都道府県別でも集計してみまして、東京都が72票と集中し、二位の神奈川県が25票で三位の埼玉県が11票と関東圏が強かったです。愛知県が8票で四位だったので、関西よりも東海の方が多く票を集めたのも興味深い。北朝鮮は2票ありました。しかしこれはリスナーの傾向もあると思うので真に受けないで大丈夫です(カテプロのキーステーションは埼玉県蕨市)。あくまで参考までに。

それよりも。放送内でもご紹介させていただいておりますが、会場名の記入投票と同時に自由記入欄の「思い出コメント」を設けておりまして、手練れのリスナーたちによる名コメントの嵐となりました。実にありがたく面白かったです。
傾向として「初めてプロレスをナマで観に行った会場」の投票とエピソードが多く、初めてでなくとも中高生の頃に行った会場や、昭和の乱暴さがまだ残る、または平成のデタラメさを色濃く感じるエピソード、あとは「暑い」とか「遠い」、「どこにあるかわかんない」「興奮した大人に椅子を奪われた」「カリフォルニアまで行ったのにイエローモンキーにはチケット売らねー的な差別を受けて入れてもらえなかった」「テキサスでクロムハーツのアクセサリーを落っことした」とか、その瞬間はどう考えてもネガティブなことなのに、後になると記憶に刻まれる且つ他人に話したくなる思い出って、うっかり遭遇してしまった酷い目なのかもしれません。中でも「暑い」が結構多かったです。

なので今回のテーマに最も相応しいのは、なるべく過酷な環境下にある会場ってことになるんです。私としては前置きが短くなりますが、それが注力したい今回のテーマ、国際プロレスの「移動体育館」なるものです。

先ほどの放送一覧でありました「思い出のプロレス会場総選挙(#5) みなさまの思い出をご紹介(昭和プロレス多め編)つづき」の回では、昭和エピソードの投稿が多かったため我々だけではさばききれないと危惧し、ゲストに我々が「プロレス博士」と勝手に呼ばせていただいている小泉先生をお招きして収録を行いました。
その際、一つの投稿内で「次点に一つ、移動体育館を入れさせてください」との一文がありました。放送内でも一文を読み上げましたが他の話題に没頭してしまい、うっかり触れそびれてしまったのです。後日、小泉先生より「触れられず痛恨の極みです」とのLINEがまいりました。
次点での投稿ですから票には反映されていないのですが、これまで書いたようにエピソード重視の企画です。スルーしてしまった責任を(勝手に感じて)果たすべく…いや正直に申しますと移動体育館は良いトークテーマだなと思っていたのに失念してしまったから後悔しているだけなんです。
全く世代違いのテーマを扱うのは悩みましたが、小泉先生より資料や写真を頂戴しましたので、移動体育館、こちらでまとめてみたいと思います。ただし所詮は個人の拙文です。ご注意を。

国際プロレス

国際プロレスは1967~81年に存在したプロレス団体で、かつてはTBS、現在のテレ東で放送されていました。近年では関連書籍が多く出版されています。
超ザックリな説明ですが新日、全日に次ぐ“第3の団体”と呼ばれ、パイオニア精神で次々に“史上初”の試みを実現させました。
以下、wikiからのコピペでパイオニアっぷりが十分うかがえるかと思います。

金網デスマッチの開催、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人レスラー同士の対戦、日本人覆面レスラー(覆面太郎)の登場、日本人ヒールユニット(独立愚連隊)の結成、専用移動バスの導入、移動体育館の導入、外国人留学生制度など、当時としては斬新だった事例を他団体に先駆けて取り入れるなど、進取の気風に富んでいた。

国際プロレス - Wikipedia

こう羅列するととんでもないアイディア団体ですよね。ECWで出されたアイディア、形式がWWEで今でも定着してるみたいな。FMWっぽいことが新日で起きるみたいな。団体はなくなろうともアイディアは今も生き続ける、これは第3の団体あるあるかもしれません。
引用文中にもあるように、この中の一つが移動体育館なわけです。

移動体育館内で揃い踏みする御三方。左から吉原社長、ラッシャー木村、ストロング小林

移動体育館

当たり前にハナシ進めてますけど、「移動体育館ってなんぞや?」ですよね。テントです。サーカスをイメージしていただければスッと入るかと。
これ書くと怒る人もいるらしいので怖いんですけど、サーカス内のショーをプロレスのルーツの一つとして考えられる説もあるとかないとか言われたり言われなかったりラジバンダリなんです。カーニバル・レスリングと言った方が通りやすいでしょうか。
なのでプロレスとサーカスは催し物として元々は近しいのかもわかりません。土地から土地へ巡るのとか。今でもプロレスはたまに野外興行もありますから、天候との闘いは何より勝たなくてはいけません(ズブ濡れの方が色濃い思い出になる、とかそういうのは一旦置いておく)。雨天に常勝、僻地でも開催!を可能にするのがこのテント、名付けて移動体育館なのです。

リングを見つめる後のアンドレ・ザ・ジャイアントであるモンスター・ロシモフも移動体育館を経験している
選手控室?でシューズの採寸してるっぽいロシモフ。手前に映るのは杉本シューズの杉本さん

さてロシモフを堪能したところで、まずは資料を読み漁ってみましょう。
週刊ファイト、昭和45(西暦1970)年7月23日号の8頁に「2500人は楽に収容」「“日本一の移動体育館”登場」という見出しで国プロの記事が。テントのミニチュア(模型?)の写真と共に紹介されています。
以下の記事によると

※ファイト縮刷版No.5でご覧になれます

「テントの直径三十五メートル、高さ八メートル(スソ部二メートル二十センチ)、広さ千平方メートル。イスだと二千五百人を楽に収容できるそうだ。それだけに、お値段の方もデラックスで、一千万以上かかったという(中略)十五人もいれば五時間で設営できる」

「週刊ファイト」昭和45年7月23日号

とある。ちなみに現在の後楽園ホールのプロレス開催キャパをググると合計1,403席とある。それより1,000人以上も多い2,500人収容のテントとなるとかなりのスケールであることがわかります。

続いて参考までに木下大サーカスを調べてみると、

「新潟の会場には,サーカスに欠かすことのできない巨大なテントが張られていた。「なつもん!」のまぼろしサーカス団は黄色と青のツートンカラーだが,木下大サーカスは虎の顔が印象的な赤いテントがトレードマーク。収容人数は約2000人という大きなものだ。」

「4Gamer.net」創立121年,木下大サーカスを観覧して,「なつもん! 20世紀の夏休み」の重要なフィーチャーであるサーカスを知る!

とあり、リンク先に飛べば一目瞭然、メッチャでかい。これで2,000人か…。
更に木下大サーカスオフィシャルサイトにある以下のQ&Aを見ると

「テントを建てるには、団員やアルバイト約70人を使い、4日かかります。初日は高さ18メートルほどの6本の鉄柱を建て、2日目にはテント張り。3、4日目に客席やステージをつくります。」

「木下サーカス」こども広場/こどもQ&A

とあり、サーカスの方が複雑な設営を要するだろうし、移動体育館には客席にひな壇もないので半分以下に見積もったとしても、国プロの「15人で5時間」と差があり過ぎる。ジワジワと昭和の香りがしてきたことでしょう。

再び週刊ファイトを見てみましょう。昭和45(西暦1970)年7月30日号の国プロ広告ページには翌8月の「ビッグ・サマー・シリーズ」、北海道の巡業先がズラッと書かれていました。8月6日から25日までで16興行。この期間に移動体育館がお披露目されています。1970年の8月から使用です。

新日本プロレスのテント興行

お次は「Gスピリッツ Vol.63【特集】ノーTV時代の新日本プロレス」こちらの藤波辰爾選手のインタビュー内で、新日本プロレスにおいて鎌田の鉄工所に頼んで作ってもらった屋外テント使用の興行をやっていたとの記述があります(より詳細は誌面を)。タイトル通り新日のノーTV時代なので旗揚げ直後の72年と思われます。国プロが導入した2年後になりますね。
もう少々掘ってみましょう。

続いては上記2つ、猪木の全戦記録を見てみましょう。
同じく新日本プロレス旗揚げイヤーの72年の11月22日、熊本は玉名市菊池川緑地公園"特設リング"とあるこちらの興行が国プロの移動体育館と同じくテントを立てて行われたようです。
もちろん何度か使用されていたようで、坂口征二が新日本プロレスに移籍した第一戦としても有名な翌73年4月1日、坂口の地元・九州の佐賀は鹿島市中川公園内、この時は特設リングではなく"移動体育館"大会と明記されています。

更にこちら。「Gスピリッツ Vol.56【特集】日本プロレス黄金時代余話」より、短期集中連載「“最強の営業マン" 大塚直樹が振り返る 昭和・新日本プロレス繁盛記【第一話】」に詳細がありました。
国プロとは違い、自前ではなくスポンサー所有のサーカス小屋のテントを借り、半年ほど使用したとのこと。こちらも詳細は誌面を。

話を国プロに戻します。

こちらのムック本では8ページに渡り移動体育館が詳細に紹介されています。ここまでまとめといて言うのもなんですが、国プロの移動体育館については、これ読んだ方が話が早いかもしれません。写真もふんだんに使われていますので、もし移動体育館にご興味わいた際には是非とも手に入れることをオススメします。

メリットvsデメリット

さて数字に関する昭和(怪し)さを置いておけば、利点が先行する移動体育館。しかし数多くの初物を生み出し、現代にも残る仕組みが多い中、移動体育館を採用している現行の団体はないと思われます。利点を上回る欠点があるのかないのか、ちょっとまとめてみます。

持ち運び可能

テントなのでそりゃそうなんですけども。当たり前ですが立派な利点。
「普段は倉庫にしまっておける会場」です。同時にしまっておく結構なスペースが必要に。

どこでも開催可能

テントを運ぶレッカー車さえ通れる道があれば、どこでもプロレス会場にすることが可能。
一方でレッカー車の所有もしくは手配が必要。というかレッカー車が移動体育館の移動たる所以。

トイレ事情

マジでどこでも開催可能なので、僻地すぎるとトイレがないことも。学校や公共施設の敷地内(例えばグラウンドとか)であれば、そこにあるトイレを使用していたようだが、それすらない場合は“野”だったようです。もちろん汲み取らず埋める。昭F’n和!
その他のインフラ部分も懸念点で、発電・蓄電を自前で用意しなければならなかった。当時はその価格が高額だったようで、その節約から平日なのに14時開始などがザラだったとか。

雨天決行が可能

これは強い。当時は現代のように小規模で開催できる会場は少なかったからか、野外興行が多かったので天候に悩まされること多々。気象予報の正確性も現代より劣っていたようです。
そして、雨が降ったら単純に中止かというとそうでもなく、雨天順延が主で、どっかしらの日程でその地に戻らなくちゃいけないので経費がかさむ。中止は中止で売り上げが飛んでしまう。このコストカット及び中止回避は当時としては大きかったと思われます。
ただし興行スケジュールに余裕がある場合は必要性が低くなります。事実、国プロの興行頻度が下がり、予備日の多くが翌日になり、それが移動体育館終焉の一つの理由だったようです。

タダ見阻止

国プロ崩壊時はまだ生まれてもいない平成からのプヲタである私でも、タダ見してるオッサンや親子を見たことあります。八王子マルチパーパスの土手の上から、川崎球場隣接のマンションから等、野外興行とタダ見は切っても切れない関係。
更に古の頃なんて、建物や丘の上からどうにかして見物していたこと多数でしょう。地元の地理・地形に詳しい奴が活躍しそうです。
しかし移動体育館があればそんなけしからん奴らはシャットアウト!

サウナにもなる

無理やり利点っぽく書きましたが、要は通気性が全くないということです。夏の使用時はそりゃ地獄のようだったとか。メガネの人は曇っちゃって何にも見えないとの声も。
現代だったら外にビニールプールを膨らまして水をはっておけばサウナブームに便乗できるかもしれません。

クサい

擁護しようがありません。しかしもちろん当初からではなく、経年からくる汚れの蓄積で、ちょっとやそっとじゃ汚れや臭いが落ちなくなってしまい、耐久性が直接的な原因ではなく、使用頻度低下と臭いが主な原因で78年、8年の稼働をもって移動体育館は廃棄されました。

以上をもってして、「今回のテーマに最も相応しいのは、なるべく過酷な環境下にある会場」という条件をクリアしまくりの会場だと思われます。

最後に

昭和45年7月に2,500人収容と書かれた数か月後の記事には3,000人収容可能とありました。大会レポートの観客数も3,000人の文字。

移動体育館

こちらが移動体育館の外観です。先ほどご紹介した2,000人を収容する木下大サーカスのドデカいテントとの差は歴然。

上記の元週刊プロレス次長・宍倉さんのブログを見ても、500人ほどの規模が現実的なところでしょうか。

ちなみに新日本プロレスの移動体育館は、大塚氏によると設営にはクレーン車が必要で、1,500人ほどの収容だったか?とあり、藤波選手によると500人ぐらいだったか?とあり揺れがある。

坂口征二の全てが詰まった超大作書籍内で、先に触れた新日移籍のくだりでその日の写真が掲載されています。坂口が投げ技を放っているシーンのアップなので、テントの内観は分かりづらいのですが、説明のために以下をご覧ください。

こちらのビッグパワーテントとは違うのですが、書籍内の写真には同じく上部に鉄骨組みが見えます。おそらく四方に支柱があり、国プロ自前のモノと比べて高さもあるように思えます。
大塚氏の記憶も頷けるようにも思えますし、一方で写真を見る限り、ひな壇もなくフラットな座席と立ち見のみで、写真の日は坂口の移籍第一戦と注目度も高いうえに地元の九州ということもあり、集客も良かったでしょうが、それ以前は不入りの時もあったでしょうから、藤波選手の記憶も頷けるような気もします。

しかしそんなことはどうでもよい。改め。んなこたどうだっていいんだよ(©高木三四郎)。
「会場総選挙」では他の投稿から紐解いた史実からも、昭和の大らかさによる浪漫を楽しませていただきました。うっかり会場のキャパをゆうに越えてしまう(消防法をシカトしたとしてもブッ飛んでる)観客数が発表されているなどザラです。
もしタイムスリップできるならば13番目ぐらいに行きたい国プロの移動体育館。どんな雰囲気だったのか、禁煙だったのか喫煙可だったのか、飲食はどうしていたのか、後期はどのぐらいの悪臭だったのか…まだまだ気になるところだらけです。

水増し、タダ見、悪臭、ダフ屋、野次、放火、暴動……現代の会場では起こり得ないことばっかりですが、今回の選挙投稿を振り返ってみるとこんなことばっかり書いてあった気がします。エネルギッシュ過多な愛おしきエピソードの数々、ありがとうございました。

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