「です・ます調」と「だ・である調」のどちらで書くか
みんなも悩んでるんだろうなぁと思う。
書いてるものが自分からずれる、という不一致感だろう。
すっきりしない話を書きますほろほろ。
1.ある方の悩み
「です・ます調」と「だ・である調」のどちらで文章を書くか、いまだに迷うという方がおられた。
「です・ます調」だと社会性に自我を乗っ取られがちになり、
「だ・である調」だと直近で読んだ本に自我を乗っ取られがちになります、という。
なるほどと、わたし笑った。
もちろん、わたしもどっちかに行ったり来たり。
ブログを書き始めた頃も、13年経った今でもモヤモヤと気持ち悪いです。
いったい、どのトーンで語尾を結んだらスッキリするんだろ。
霊験あらたかなお告げが聞きたいが、頼れそうな先がない。
で、さいきんは、やたらと「ほろほろ」入れて、チャレンジした気になってみる。
「~だ」とか「~である」なんて言い方、普段の会話ではあまりしないのです。
いったい、きみはどこの星の子?というぐらいにへん”だ”。
そもそも断定調なんて、聞きたくも無いです。違和感があり過ぎる。
いや、猛烈にある。
いや、猛烈だ。
いや、猛烈です。
いったい、誰が「だ・である調」なんて使い始めてしまったんだっ。
2.日常から離れたくない
その人のスタイルを語尾が現わしてしまう。
だ、だ、だ、とメッセージングしたいほど、わたし頑なじゃない。
です、です、ですなんて、そんなわたし良い人でもないし。
わたしには、話すように、普段のように書きたいんだ、という強めの願望があるのです。
偽り薄めに自然体で書ければ、きっとわたしらしさが出るんじゃないか。
なるべくナラティブにすれば、スッキリするんじゃないという期待がいつもある。
が、日常会話で文を埋めることは意外に難しいのです。
「やっぱりさぁ、不可能だとおもうんだよね。
だってね、そういう日常会話風の文を読もうとすると、実際読みにくいんだ。
文って目的的で正確な情報を伝えたい産まれだろう。
会話は違うよ。一緒に漂うような感じかな。
事務仕事の話を会話調で書けなくもないんだけど、かなり無理があるよ。
文字を追う目は、1つのまとまり、区切りを見つけられなくなるんだ。
事務話で、一緒に漂いたい仲でもなんだし。
きっと、リアルな会話調は無理なんだよ。」
こんなふうに会話の様に書くと、「だ・である調」は姿を消す。
かわりに「よ」とか「ね」とか、いろいろ出て来きて読む処理に戸惑う。
予測が難しくなり、流れが見えない。目がウロウロする。よよよよよ。。
「です」と「ます」がいいのかな?
いや、ふだんの会話でさえ、「です・ます調」なんて使ってない。
つまり、どっちかという問題ではないのです。
「だ・である調」も「です・ます調」も、語尾を整え効率的に読むための工夫でしかない。
ふたりは、同じ穴のムジナなのです。
いや、きっと最初は、「よろよろ」とか「ほろほろ」なんかもいたんだ。
「よ」とか「ね」とか、いろいろ今も居る。
けど、その二人のムジナが筆頭、人気があって今の地位についている。と思う。
3.なぜ日常会話で書けないの?
話せるから、そのまま書けるのかというと、実は難しい。
話がうまいから、そのまま書けば直木賞じゃんという人が、書くのを嫌がるのを見て来た。
脳からしたら、話すという行為と、書く、聞くという行為はまったく違う部署が担当する。
その人が話す力がすごいからといって、書く力があるとはいえない。
そして、話してる通りに書くことは、実は、書き手にとっても異次元なのです。
そんな訓練したことが無い。
また、目の方が、耳に比べ100倍も1000倍も処理速度がすごい。
だから、文章なら、大量に情報をさばける。
せっかくさばけるのに、よよよよよ。。では、かなりあたまに来る。
じゃあ、というので、「だ・である調」がのさばって来た。と思う。
「Aである」。ほう、、Aであるのか。
「だが、Bではない」。そうか、Bではないんだなとはっきり伝えられる。
「Aだわ」。ふーん。。
「でも、Bじゃないのよ」。そうなのかい?・・
「だ・である調」も「です・ます調」も、見れば、かなり流れを推測できる。
でも、会話に近いと、なにかが間に挟まっている。
ちょっともやっとした伝わり方をする。余韻や間がある。
お陰で、ぱっぱと裁けず、脳に負担がかかる。
4.人類の期待を背負って来たキミ
会話はどこにも残らないから、文章は記録として発達して来た。
文章には、記憶する、共有するという全人類の期待がかかっていた。
毎世代ごとに、鉄の溶かし方をまた1から発明しないで済む。
あるいは、口の伝承と違って文字なら正確に共有できる。
文章は、正確であることを旨とする。
ごく周囲と濃厚な関係を結ぶための会話と、社会性を持つ文章ではそもそも生まれも育ちも違うのです。
わたしの違和感なんて、どうでもよかったのだ。
会話と文章とを一体化したいという切実なわたしの願いは、この世界では優先順位の下位も下位だった。
世間の掟を破ってまで結婚しても、あまり実らない。
家の違うジュリエットは、そもそもロミオとは結ばれない定めにあった。
会話は、相手との間にスペースが出来る。ユルユルしてないと、相手もつっこめない。
目というより、耳が主役に成る。
早口は嫌われる。緩急と、間が命。
きっと、わたしたちは自分で意識している以上に、会話ではリズムやスペースに配慮しながら話してる。
だから、文章にもリズムやスペースを意識してねという話が出て来る。
でも、文章はあきらかに意味や情報の伝達に主眼がある。
「だ・である調」は確かに、目がかたまりを捉え易い。
そして、リズムを整えやすい。あんまり好きなリズムではないけど。
いや、そんな高級なことより、先ず、この「だ・である調」という非日常感をわたしはなんとかしたいのだ。
もう、ネコもわたしも記事を書く時代が来てしまったのだし。
文章語尾に革命が起こす時だろう。
でも、話すように書きたいというわたしの切ない願いは、そもそも無理があることが判明した。
でも、会話に近く書くという願いは、あなたとの距離を縮めたいからです。
そういうことをブログ人間は切実に願うのです。
事務的な内容の文章ばかりでは、もう嫌なのです。
と、つらつら書いてここまで来たわたしの文章。
「です・ます調」と「だ・である調」のどちらで文章が書かれていのかと言うと、実はどちらでもない。
どちらかで書けない。
いや、ほとんどどっちでもない。
実際のところ、気にしてるほどに、困ってないということ?
へへへ。ほろほろ。
P.S.
文章は、目的や誰に向けるのかによって、口調が変わります。会話と同じです。
報告書は、です、ます、だ、で良いのですが、恋のメッセージには使えない。
わたしたちは、柔軟に語尾を変えている。
でも、にも関わらず、わたしたちは「です・ます調」と「だ・である調」のどちらで文章を書くべきなのかと気にする。
たぶん、日常の話し言葉で書けないのに苛立ってる。
とくに、文章を毎日書き始めた人に、違和感はすごいかと思う。
いや、ずっと書いていても思っちゃう。
自然に近い言葉で文章を書けないものかと、そしたら、あなたに近づけるのにと。
わたしのように思ってる人も、すこしはいるのかもしれない。