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お義母さんの長い長い旅

1か月前、わたしとかのじょは1938年生まれのお義母さんを関西にお迎えしました。

娘であるかのじょは、身の回りの品を段ボールに詰めこちらに送ってねと事前に母に依頼していました。

最初は夏物だけでいいと思うの、後はこちらで買うわという娘の言に従い、91歳の母は3つの段ボールを送って来た。

きっと、腕の上がらないお義母さんの代わりに、みなが段ボールを用意し、タンスを確認し、梱包し宅急便に託したのでしょう。

3個が送られてきた。

生まれてからずっと福岡で暮らして来たお義母さんだもの、さぞ寂しいだろうし、不安でしょう。

いくら娘が居るといっても、ここは関西。まったく知り合いもいないのです。(おお、、わたしたち自身もここに知り合いもいないし不案内)

朝近所の人にあいさつするなんてことをわたしたちは普段何とも思っていないのですが、その”当たり前”が剥がされたとき、日常を構成していたものが崩壊する。

寄る辺の無さを感じるでしょう。居場所が無くなる。

お義母さんから事前に送られて来た箱を開けてわたしたちは、びっくりしました。

箱の上の方は、下着や外出着が多少あったけど、すぐ下にこれでもかとノートと筆記具が入ってたのです。

いっぱいのノートですよ。いっぱいのペン。

お義母さん、こんなに書くの?というぐらいにそれらがたくさん入ってました。

ねえ、91歳の方なんですよ。

眼もよく見えないのに、まだまだ、まめに書きつけようなんて。。

以前お義母さんは言ってたんです。

わたしゃね、いつも簡単なメモを書きつけてるんだと。

「3行ぐらいなんだよ、その日、何したとかどこ行ったかなんだ。

書いて置かないとね、なんでもわたしゃすっかり忘れてしまうんじゃよ。

うん?そうね、毎日毎日書くよ。

でもね、わたしゃテーブルによくそれを置き忘れるんだ。

でね、ときどきお嫁さんの悪口も書くんだ。こんなこと言われたとかね。いけないんだけどね。

お嫁が見るかもしれないからね、みてもよく分からないようにと省略して書いたり、関連した言葉に置き換えておくんだよ。

でもね、後から自分で読み返すと、あんまり変換し過ぎててね、自分でもいったい何を書いたのかちっとも分からないんだよ。」

お義母さんは手がいつも動いてます。

食堂を義母とやってきた手。子供を育てた手。お客さんたちが飲んだ湯飲み茶わんを洗ったり、洗濯物干したり。

その手はリューマチのせいで膨れ上がり、曲がってます。肩も脱臼を繰り返したせいで、上にも下にもほとんど動かせない。

メガネをかけて、忘れないようにと手が何かを書きつける。

なにもすることが無いのなら、テレビ見ながら右の手が左の指たちをぎこちなく揉んでいる。こそっと揉んでる。

小さなちいさなその手はいつも動いてます。

年老いて、歩いてはすぐ転ぶようになりました。(足や腰の筋肉が激減し足があがりません。腰はふんばれず股関節もあまり動かない、目も悪い。)

骨折で手術を繰り返す中でお義母さんの右足は左より2センチも短くなってます。

背の小さなかのじょの、その母はさらに背が小さいのですが、もっと小さくなった。

履いてる靴も小学生も驚くほどに、かのじょ同様に小さい。(21センチでもぶかぶかです)

小さな背の小さな足のお義母さんは、ずっと働きづめでした。

お義母さんは長女でしたからね、小さい頃は弟と妹たちの世話をした。

終戦の頃、グラマンの機銃掃射をくらってます。怖かったという。

やがて、久留米の女学校を出て、すぐに大学の先生とのお見合いが用意されたのだけれど、「わたしゃ、先生は好かん」とお断りしたそうです。

店の手伝いを懇願されてもいたので、そこで働き始めます。

やがて義理の母となるその姑は、離婚した息子の嫁候補を探していたんです。

お義母さんは、そこで18歳から働き始めた。

どうか息子の嫁になってくれと姑に懇願されたお義母さんは、はいと言う。

駅前にあった燃料店は、食堂も始めました。

家具の街でしたから、多くの職工が食べにきてくれた。

朝早くから夜遅くまで働いて子どもたちの世話をし、夫と義母の世話にも明け暮れて来ました。

義母が亡くなり子にお嫁さんが来て、やがてお義母さんは食堂を辞めます。

燃料店だけにして、店は事務所となったのですが、今でも用も無いのに多くの人が寄ります。

90歳過ぎたおじいさんがも自転車で来るし、若者がタバコ買うついでに話し込んで行く。

寄ってくれれば、お義母さんはお茶を出す。

みなは、あれこれと話す。

どれもたわいない話で、どれも何度も聞かされた昔話。

みんな行き場所が無いんでしょう。店に暇つぶしに来るわけです。

お義母さんは嫌な顔もせずに、そうかい、そうかいと何度も相槌を打つ。

お義母さん、辛くない?と以前聞いたことがありました。

「辛か」と笑いました。(ですよね)

お義母さんがそうかそうかと相槌を打つうちに、客はようやく腰をあげるんだけど、すぐに次の客が来るのです。病院の待合みたいに申し合わせたかのように順に来る。

また、お義母さんはお茶とお茶菓子を出す。

みんな用も無いのに、店に寄って行く。お義母さんはまた茶碗を洗う。。。

そういう生活を何十年も続けて来たひとだもの、この関西の快適なマンションに来てしまったら、やることが無くなるのです。

ここはシニア向けマンションなので、もうあまり転ばなくて済むし、実の娘の世話になるんですから気兼ねも減るのですが、

お義母さんを構成してきた身ぐるみ全部がここでは剥ぎ取られてしまう。

今日は暑いねという知り合いがそこにいない。

ひたすらわたしたちのサポートを受ける。

けっして他者に自分の意見を押し付けず、他者のことを第1におもうひとです。

だから、ここでもやっぱり遠慮が起こるでしょう。

ああ、でも、実家は今たいへんなのです。お兄さんが大怪我をし、お嫁さんの肩に商売がかかってる。

お嫁さんの子どもたちがどんどん子を量産し家事も増えてる。かんじんのお嫁さん自身が年をとってきた。。

お嫁さんの肩だけでとても足りない状況です。

なので、実の娘は、じゃあと自分の肩を差し出したのです。

お義母さんは要介護2です。

週に3日ほどデイケアのセンターに行っていた。

そこでは、家族の負担を減らすため、食事や入浴をしてくれます。

しかしとお義母さんは言うのです。「みんな、しゃべらんとよ」。老人たちはしゃべらないというのです。

ケアされてしまうと、ケアされることが前提になり、すべてが受け身になるでしょう。

話相手もなく、センターではつまらないようです。

全米のあるキリスト教の修道院の調査結果というものがあります。

16歳から18歳の間に修道女としてその道に入った人たちの寿命を調査したものです。

生活環境、食事がこれほど揃った被験者集団はいません。

約1000人ほどの修道女を調べた結果は、たいへん興味深いものでした。

好奇心の強い者ほど、病気になりにくい、寿命が長いというものでした。

彼女たちは修道院に入るに際して、宣誓書を書いていました。

やはり、そこには個性が出ていて、中には躍動感があり好奇心が旺盛にある者もいたのです。

好奇心とは、世界を素に見て、素に喜ぶという意味です。そのような人は、また、素に感謝するでしょう。

若いときに好奇心の旺盛な者は、終生その傾向を失わないのです。かれらは痴呆症にもかかりにくかったのです。

もちろん、かれらもガンに罹ったりもするんだけれど、長く生きます。

これほど被験者の属性が揃った集団というのも珍しいし、じゅうぶんな被験者数を提供してくれる組織もないです。

毎日同じものを食べ、同じ時間を刻む。

お祈りし、お勤めをし、身の回りを整え、お祈りし、就寝する。

同じ曜日を過ごし、同じ世相に触れる。同じ信じる対象であるイエスに尽くす。。

修道女の中にはもちろん真面目な人も多いのですが、傾向としては真面目だけの人の痴呆症の発症率は高く、寿命が短かったのです。

と、これを読んだあなたは、じゃあ旺盛な好奇心をもたなくっちゃとおもっても、それは血が伝える流れですものね。意思で性格は変えれません。神が与えもうた定め。

段ボールを開けた時、ああ、お義母さんらしなぁとわたしは笑ってしまったのです。

いくつになっても、好奇心を失わないひとだなぁと。

はんぱない量のノート。まだ、書くというんだも。それは実家の者たちもよーく知っていて、ばーちゃんの一生分も一緒に送り出してくれたのでした。

お義母さんもまじめで誠実なひとですが、笑いを探します。朗らかであることを望むひと。(だから、他者を非難も評価もしません。それは徹底しています)

ああ、それはあなたの娘にそっくりなのです。

娘であるかのじょもきっと長生きすることでしょう。

どうぞ、お義母さん、ここで気を使われませんように。

わたしは、あなたのおしめの世話さえ覚悟しております。

どうぞ、ここでも旅が続きますように。


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