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日常、日常、日常/紀伊カンナ「魔法が使えなくても」


かれらの日常は、どうしてこんなにも愛しいのだろう。


紀伊カンナ先生の「魔法が使えなくても」。手に取ったきっかけは本屋さんでもなく、とある音楽雑誌の巻末に掲載されているエディターによるレビュー。

なんかいいな。

そう思って購入した。直感と、少しの時間とお金と、行動力。当時の自分には、それらがぜんぶ揃っていたらしい。ちなみに、作者のことはおろか、FEEL YOUNGで連載されていたこともまったく知らなかった。


金なし、恋人なし、夢なしのアニメーターの岸くん。バンドマンと同棲する千代ちゃん。アイドルに憧れる女子高生まゆちゃんと仲良しのキキちゃん。性別不詳、売れないバンドマンのたまきちゃん。かれらのありふれていて輝かしい日常を描いた作品。一応短編集なので、見た目(結構分厚くて手に持つとずっしりくる)のわりにはサクッと読める。

日々、繰り返される日常の中でいろいろなことを考えて生きているが、私はそれらのひとつひとつを愛しいと思ったことはない。すくなくとも私は、という括弧付きの意見だが、こう思う人は結構多いんじゃない、と身勝手に思っている。人生、死ぬほどつまらなくはないが、積極的かつ能動的に生きているとは言い難い。私には、漫画の世界で繰り広げられるような派手な青春が訪れたこともないし、きっとゲームの中の強くて優しい勇者にもなれない。それは当然のことなんだし、それなりに楽しんで生きているけど、ときおり絶望する。このまま、生きて、死ぬのか、と。

紀伊先生の漫画は、絶対的な日常を描く。側から見ると普遍的で、当事者からすると唯一無二のそれ。私の人生とさほど変わらないそれ。奇を衒ったキャラクターはいないし、バッドエンドはおろかハッピーエンドすら待ち受けていない。

日常が続くだけ、それだけなのになぜか愛おしくてたまらない。どうしてこんなに愛おしいのだろう。


「この世はきれいなねずみ色」とたまきちゃんは言った。

「なんせ僕らは若者なので」と岸くんは悟った。


ともするとあきらめのような言葉が、軽やかに胸を打つ。そっか、そうなのか、と納得してしまう。心には爽やかな風が吹き、物語は終わりを迎える。でも、かれらは生きているから大丈夫。かれらは私たちと同じ日常を生きているのだから。

スタンディングオベーションのハッピーエンドもいらない、暴力的で無慈悲なバッドエンドもいらない。かわりに、紀伊先生は教えてくれる。日々は続くよ、どこまでも、と。

紙の上を縦横無尽に動く躍動感があるイラスト。だけど、うるさくないしむしろかわいい絵柄。伸びたり跳ねたり、テンポの良い言葉たち。軽やかで、爽やかで、ほんのすこし泣きたくなる。紀伊先生の作品はとにかくやさしい。

本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ。私の好きな作家がとある作品の中で言っていた。

「魔法が使えなくても」を読んでその通りだ、と思った。


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最後にひとつ、余談というか蛇足というか。

紀伊先生が描く動物はほんとうにかわいい。猫だけじゃなく、犬(エトランゼシリーズに出てくる)も最高。かわいいは正義ってやつですね、先生。

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