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キリストの愛を感じて【カトリック信者なんです 2】

中学生になると部活動で試合があることで日曜日の教会に行くとこはさっぱり無くなってしまいました。当時の私にとっては願ったり叶ったり。品行方正な教会での私をそのまま学校に持って行くと、嫌われてウザがられるキャラになってしまいます。

学校生活が人生の全て、といっても良いあの頃の私には友人の反応に敏感でした。
悪い事がカッコいいことで友人に認められるのと、教会内で認められることとは雲泥の差があるように感じていました。
そう、快感を得るほどに。

神を信じること、ミサに行くことはダサかったのです。今振り返ると最低な中学生でした。

中学時代より教会から離れてしまってすっかりミサも受けず、ほぼ教会へ行く事もなく10代を過ごし、成人してからはちょうどオウム事件がなどが世間を賑わしていた事もあり、神を信じる行為は友人達から好奇な目で見られるようで、公明正大とは真逆の恥ずかしささえありましたね。
すっかり脚が遠のいて信者である事さえ、忘れてしまうくらい。

思い出したのは35歳くらいから後半に差し掛かって。
当時仲良くしていた仲間達と神社仏閣巡りをするというイベントをよく行なっていました。参加者の中に日本の神の歴史に詳しい人がいて、あちこちの神社で今まで知らなかった日本人としての祭事や営みを詳しく説明してくれて、日本人としての誇りや喜びを味わったりしました。
しかし、いざ仏教の話になるとなぜか違和感というか、身体に反応が出るかのように少し拒絶反応があったように思います。違和感だけが残り、その理由もわからないまま40歳を超えた辺りで気づいたのです。

私の中にキリスト教、カトリック信者としての心があることに。
ここで断っておきたいことがあります。決して仏教を否定するつもりは毛頭なく、私の思いは神という存在はキリストとブッダの上にいて、キリストもブッダも神のことばを伝える代弁者、コンバートしているだけであるというふうに捉えています。

私には幼年の頃からキリストの言葉、聖書の言葉に慣れ親しんで育ったものですから、キリストの言葉の方がしっくりくるということです。それは「愛」です。愛について語っているからとても納得がいくんです。

愛に溢れている、とか、無償の愛、与える愛など、私が今ようやく戻ってこれた場所だと思っています。

神道、八百万の神を知ることで、
自分がどこから来て、何を繋いでいくのかを理解でき、
仏教を知る事で、キリストを通じて神を感じることができました。

そして今、幸せな事に敬虔なカトリック信者であるお袋の介護で二人暮らしをしていることから、キリストについて、聖書について、愛とは、赦すとはなどについて日々尋ねたりすることも多く。お袋が考えてきたことや経験してきたことなど聴いて、
これからの私のカトリック信者としての生き方、祈り方の指針としています。

⚫️東川哲也 official web site
http://asone-labo.com

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