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初めての留学で挫折−『おもひでぽろぽろ』−

 

こんにちは。あるぱかです。

つい一週間ほど前にジブリの『おもひでぽろぽろ』を見なおすことにした。この映画では、主人公である27歳のタエ子が、休暇をとって東京から東北へ旅に出る。彼女は、旅に出ている間なぜか小学5年生の時のことをしきり思い出してしまう。その思い出を思い起こしながら、今の自分を見つめ直すといったストーリーだ。

彼女の思い出すことは、分数の割り算がどうしても理解できなかったことや学芸会のこと、初めて食べたパイナップルが期待と違ったことなどありふれたことばかりだ。

この映画の冒頭でタエ子は「青虫はサナギにならなければ蝶々にはなれない。あのころをしきりに思い出すのは、私にサナギの季節が再び巡ってきたからなのだろうか」と述べている。

この映画を見てから、私はつい高校1年生の時のオーストラリア留学のことを思い出してしまう。きっとこの時期の私が「サナギ」だったからなのだろう。

今回のnoteは完全に自分語りだ。これを書こうと思ったのは、きっと私があの時の挫折をようやく消化できたからなのだろうか。それとも今「蝶々」になろうとしているからなのか。

・初めての挫折

オーストラリア留学は私が経験した初めての挫折だった。

留学することを決めたのは中学3年生の時だった。理由は、端的に言えば「日常に飽きた」からだった。成績もよかったし、人間関係も悩むことは少なかった。音楽コンクールでは指揮者に選ばれたこともあり、自分のことを人気者とすら思っていた。部活動で選んだバレーボールでも、チームのエースと言われていた。日々の生活に満足していた。

しかし、このまま対して変わらない日常がもう3年続くと考えた時、人生に「つまらなさ」を感じた。「変化が欲しい」と考えていくうちに、父がもともとオーストラリアに赴任していたこともあり、高校での留学を思い立ったのである。

決める前から海外に対する漠然とした憧れがあった。旅行でよく行ってた海外は、いつも自由でキラキラして見えた。中学2年生の時に観た「ハイスクールミュージカル」の楽しそうな高校生たちを想像して羨ましく思った。自分も海外の高校にいくことで、「日本にいる平凡な日常とは違う輝きを見つけられる」のではとドキドキしていた。留学の発端はそんな安易な考えだった。

オーストラリアに渡航するまでに海外経験はなかった。渡航した時点では現地校に入るほどの英語力は持ち合わせていなかったため、まずは語学学校に入ることになった。この時の私は、厨二病を拗らせこの上ない「無敵感」を自分に感じていた。語学学校にいる誰よりも賢いとすら思っていた。「賢い」自分は、誰よりも早く語学学校を卒業して、現地校に行かなくてはと毎日必死だった。そして三ヶ月程で語学学校を卒業し、現地校に転入した。語学学校の先生には、「こんなスピードで現地校にいくなんてすごいわ」と言われた。この時期までに、私の「無敵感」は増しに増していた。完全に傲り高ぶっていた

・現地校での生活

現地校では、驚くことの連発だった。語学学校では聞き取れていた授業も、現地校となればネイティブ用であり全く別の言語のようにすら感じた。初日のランチタイムで私を誘ってくれた女の子たちは、学校の中ではイケイケなグループで、最初に聞いてきたことは「ドラックやってる?」だった。毎日これでもかというほどの英語のシャワーを浴び、帰る頃には頭が痛くなっていた。

語学学校を卒業しても決してネイティブのように話せた訳ではなかった。そんな私が自分に合う友達を作るのは大変だった。勇気を出して、「この子なら仲良くなれるかも」と話しかけた子と仲良くなるために面白いことを言おうと毎日必死だった。そうして仲良くなった同じ時期に転校してきたオーストラリア人、中国人の女の子と学校の人気者だったオーストラリアと日本のハーフの女の子と仲良くなることができた。

転校して3ヶ月頃までは、友達の家でお泊まりしたり、ランチタイムはいつもその子たちとおしゃべりをしてあっという間に過ぎてしまう。ハイスクールミュージカル程きらびやかではないが、思い描いていた留学に近かった。3ヶ月程経ったとき、中国人の女の子が転校することになった。3人になって一週間ほどで、10人くらいの大きなグループと一緒にご飯を食べるようになった。これが転機だった。

仲良くなったオーストラリア人のハリエットはギャグ線も高く、すぐに新しいグループでの人気者になった。ちょうどこの頃、コースが2つに別れるようになり1番仲良かったハリエットとは別の授業をとるようになった。そうしていくうちに共通の話題がなくなり、だんだんと話しにくくなった。最初はグループにいる子たちに積極的に話しかけていたが、なかなか仲良くなることができなかった。そのグループには、私のようになかなか話せないアジア人留学生が他にも4人程いた。次第にそこにいた日本人2人と仲良くなった。

オーストラリア人は、ヨーロッパからの転校生がくるとなると尋常じゃない興味を示した。「ねえ、知ってる。オランダから男の子が来るんだって。きっとかっこいいよね」という会話を聞いた。それに比べて、アジア人の転校生が来るとなってもほとんど話題にはならなかった。悲しいけど、これが事実だった。

高校生の時はグループの見た目を気にする。ほとんど話さないで座っているだけの私たちアジア人に苛立ったのか、ハリエットに「私と仲良くするか、あの子たちと仲よくするか選んで」と言われた。常にご飯を食べながら居場所のなさを痛感していた私たちは、グループを抜け3人でご飯を食べることにした。

日本で華のJK時代をおくっている友人が常に眩しかった。対照的に私たち3人は、毎日陽の当たらない、人目のつかない体育館の下でご飯を食べていた。そこが使用されている時は、誰も来ない階段で過ごした。3人いればまだ良かったが、2人が休んだ時は地獄だった。自分の居場所がどこにもないようなそんな絶望と孤独を感じた。

留学先の学校では、何かのキャプテンを務めたり、芸に秀でた人の制服には文字が刺繍されたり、バッジ、色の違うネクタイが与えられた(下の画像)。一目で「あの人すごい人なんだ」と分かるようになっていた。私の胸には、なんの刺繍もバッジもなかった

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得意だと思っていたバレーボールもオーストラリアではマイナースポーツで一回も披露する機会がなかった。それまで自分は面白い人間で、勉強もスポーツもできて、友達が多いと思っていた。そんな今まで積み上げてきた「無敵感」を完全に打ち破られた。それまで拠り所にしていたものが全て否定され、自分がどんな人間であるのかわからなくなった

学校というコミュニティで、ここまでの居場所のなさを感じたことは今までなかった。陽の当たらない生活をしているうちに、父の赴任が終わることになった。学校に残って現地高校を卒業するという選択肢もあったが、もちろん日本に帰ることを選んだ。


・消化不良で終わった留学

初めての留学は逃げるようにして終わった。この経験をなぜ今、こんなにも思い出すのだろうか。

それはきっと私があの時の刺繍がなかった自分を受け入れることができ、あの時の孤独や絶望感を耐えてくれた自分に感謝できるようになったからだろう。そして人生において、あの時期が一番自分を変えてくれた時期だからであろう。

私はあの留学で、海外を決めつけたくなかった。もしかしたら、高校一年生という貴重な楽しい時期を陽が当たらない状態で過ごした自分を否定したくなかったエゴからなのかもしれないが、もう一度大学で留学をしたいと思った。高校の時は、足りなかった英語力を埋めて、もう一度勝負したかった。あの時うまくいかなかったのは、周りの環境のせいだと決めつけて、留学したことを後悔するのが嫌だった。

周りのせいだと思うことで、自分を守ることはできる。でも、そう思ったらあの苦しかった経験から何も得られなくなる。オーストラリア人の女の子が悪いのでもない、学校の制度でも学校にいた人たち、自分が日本人であったせいでもない。あの時の留学を消化不良で終わらせたのは、全部自分のせいだった。もっと英語を勉強しようと思えばできたし、友達を作ろうと努力することもできた。でも出来ることをせずに、さらに深く傷つくことを恐れ諦めることを選んだ私がいた。

「全部自分のせいでこんな経験をした」なんて終わった直後は、全く思うことができなかった。でも、考えれば考える程、自分にできる余地があったことを痛感した。事実できることはなるべくやり尽くそうと望んだイギリス留学は、あの時の留学とは全く違う景色が見えた。

・あの時を思い出す理由

今が決してとっても美しい「蝶々」だとは言えない。でも、今の自分を受け入れられるようになった。だからこそ、今の自分を作ってくれたあの辛い「サナギ」の時代を懐かしく思い返すことが出来るようになったのだろう。(もしあの経験をしなかったら、驕り高ぶってたままだったのかと考えると恐ろしい。)

これからも不完全な自分を受け止めつつ、さらに綺麗な「蝶々」を目指して歩んでいけるような自分であり続けたい。


・さいごに

ここまで読んでくださったあなたにもきっと「サナギ」の時期があったと思います。その時期をいつか心から受け入れられるようになることを祈っています。その経験は紛れもなく過去のあなたですが、現在の自分の行動を縛ったり制限したりするものではないとわたしは思います。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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