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京都鈍考を訪れて


初、鈍考


 初めての体験でいろいろな思いがあったので記録しておく。半年ほど前から、いつか行ってみたいと思っていた。それが鈍考。京都の上高野にある私設図書室である。ブックディレクターの幅允孝さん選りすぐりの3000冊ほどがあるという。テレビでは箱根本箱(こちらもいつか行ってみたい)から本の紹介をされていた。さて、どんなラインアップなのか。まずは、ホームページから引用してみよう。

「鈍考donkou」の想い


 時間の流れの遅い場所をつくりたい。そのために設計された私設図書室と喫茶が「鈍考donkou/喫茶 芳 Kissa Fang」です。人を取り巻く日々の流れが加速するなか、社会のシステムやテクノロジーが求める速度から、敢えて鈍くあること。そして、人としての愉しさや健やかさについて自発的に考え続けること。それが、「鈍考」で促したい時間です。ゆっくりと焙煎し丁寧に淹れた珈琲を味わいながら、本を読む。なんということのない孤独な時間と、書物という過去の誰かとの交感が、これからの人間の創発や豊かさの基盤になると信じて、ここに「鈍考」をひらきます。

「鈍考donkou」について


 「鈍考」とは、BACH代表・ブックディレクターの幅允孝が主宰する私設図書室と、併設する「喫茶 芳」のことです。有限会社BACH(本社:東京都渋谷区)の京都分室となる「鈍考」は、市中から少し離れた檜林の借景が美しい、傍に小川が流れる静かな立地。「時間の流れの遅い場所」を意図したこの建物1階は、BACHが2005年の創業以来アーカイブしてきた約3000冊の蔵書を手に取り読める私設図書室となり、また併設する「喫茶 芳」では、手廻し自家焙煎で深煎りにローストした珈琲を、ネルドリップの抽出で飲むことができます。「鈍考」は、90分で定員6名(1日3回の入れ替え制)のみをWEB予約で受け付ける小さな分室ですが、土地探しの段階から幅と一緒に計画を進めてきた建築家の堀部安嗣は、伝統的な日本の住宅建築の手法と最先端の技術を織り合わせ、この場所ならではの居心地と温かみ、そして静かに流れる時間をつくりあげました。また、施工を担当した羽根建築工房も「手刻み」と呼ばれる日本古来の伝統工法を随所に用い、堀部の描いたプランを見事に実装させ、五感に訴える建築的引力を生み出しました。時間の奪い合いが激しく、人と本の距離が少しずつ離れてきてしまっている昨今ですが、私たちは「本だからこそ伝えられる何か」を未だ探求しようとしています。現在の技術や社会構造が人間に求める即時制や日々の高速回転とは距離をおいた「鈍さ」。それをほんのひと時でも体感し、1冊1冊の本(=先人の智慧)に深く潜るためにつくった、未来に向けた本と時間の実験室が「鈍考」です。

「鈍考」の本について


 外部記憶が充実し、生成系AIが機械学習を日々進めるなか、インターネットに浮遊していない知見やアイデアを人が探めるときに、紙の本だからこそ伝えられる何かがあると私は考えています。書き手がしぼり出した言葉を、読み手が丁寧にすくいあげ、交感し、解釈すること。過去の言葉を未来のための血肉として変貌させること。それらしい言説のまとまりを作ることは機械がしてくれる時代がきていますが、著者と読者が成す1対1の精神の受け渡しは、人間が自発的に考え、判断し、未知を発見するための基盤になると考えます。そのための集中する場と、時間のフレーミング、そして心の弛緩が「鈍考」には在ります。ページを読む手を止めて考え込んだり、読み戻ったり、別の書物を手に取ったり、紙の本でしか体感できない情報の取り入れ方をもう一度ここで呼び覚ましてください。
「鈍考」主宰 幅 允孝
(あまりにも共感できる文章だったので全文無断引用させていただきました。お許しください。)

2日前


 場所は左京区上高野、最寄り駅は叡山電鉄三宅八幡。しかし、僕は交通費をケチって地下鉄国際会館から片道30分ほど歩いて訪れることにした。烏丸御池までは定期がある。往復1時間くらいなら散歩がてら歩いてもいい。それに、来年度あたり異動になる、つまり定期がなくなる可能性もある。ならば今のうちに行っておこうと思った。1月、2月は忙しい。この2日間の連休を逃しては行く機会を失う。そんな思いで、2日前の予約で行くことを決めた。寒いなあ、などと思いながら。

当日の往路 図書室に入るまで

 新田辺から国際会館まで、およそ1時間、電車の中では宇野重規著「実験の民主主義」を読んでいる。推し活とかファンダムとかの話が出ている。僕は「学問のファンクラブ」会長(会員1名)だから、今最もおもしろい学問を推せばいいなあとか、やっぱり今は養老先生かなあ、などと思いながら、そしてときどき居眠りしながら目的の駅に着く。
 昔は地図を片手に少々迷いながらでもどこにでも行ったものだが、今回はおそらく紙の地図では無理だったと思う。というか、脳がヤワになってしまったのかもしれない。スマホがなければきっとたどり着けなかっただろう。川をいくつか越え、細い道を通り抜ける。途中、おそらく叡電の駅からやって来たのだろう、女性2人組がやはりスマホを片手に前を歩いている。僕はちょっと慣れたふりをしながら、手に持ったスマホを少し隠し気味に、2人を追い抜いて行く。坂を上ると、その建物が見つかった。予約時間の10分前。5分前から入れるということだったので、もう少し先まで行き、時間をつぶす。坂を上がり切ると、京都市内を一望?できる。それを写真に収める。だいぶん高くまで来たのだなあと感じた。 


 戻ってみると先ほどの2人組が玄関のところでオートロックのドアを開けている。タッチパネルに触れてパスナンバーを入力する。僕は少し離れて待った。完全予約制であるし、ドアが開いたところでいっしょにすっと入ってしまうことがためらわれた。僕は2人が中に入って、扉が再びロックされるのを待ってドアまで進んだ。タッチパネルに触れる。最初に出てきた2つのナンバーをタッチする。次にパスナンバーを入れる。数字を確認しようと思っているうちに、パネルの数字が消えてしまった。あわてて、もう一度タッチするが数字は表れない。時間を置かないといけないのかと思い少し待つ。もう一度タッチする。数字が出てきた。タッチする。パスナンバーを入力する、最後に「V」をタッチする。それを読んでいなかった。また消える。その後、何度タッチしても数字は表れない。後ろに人の気配がしている。1人の女性が待っている。きっと「オッサンどんくさいなあ」とか思われているのだろう。あせる。あせりまくる。もう一度タッチする。ダメだ。待ちきれなくなったのか、後ろの女性が近づいて声をかけてくる。「できますか?私もよく分からないんですけど。」横顔しか見られなかったが笑顔がすてきな女性であった。自分の娘ほどの年齢の女性にドギマギしながら答える。「何度かタッチしてるんですが光らないんですよね。」また数回チャレンジするが無理。女性が試しにタッチする。一発で光った。何なんだ。僕の指が乾燥しすぎているのか。二度失敗すると三度目は無理とかないよな。まさか指紋を覚えていたりしないよな。・・・入力手順はすっかり覚えていたので僕が数字を入れて最後の「V」にタッチする。解錠する音が聞こえた。冷や汗が流れた。それでなくても30分歩いて、ダウンジャケットの下は汗ばんでいたのに。

建物の中へ


 そんなこんなで中に入る。靴を脱ぎ上がる。僕はキョロキョロしている。女性は何度か来ているのか、すぐにロッカーに手荷物を入れている。僕もその後に続く。そしてダウンをハンガーにかけて中に入って行く。白木の床が気持ちいい。喫茶の女性が声をかけてくれる。畳の上に上る。カウンターの前に座る。説明があるという。まずは「お寒い中ありがとうございます」と白湯を出していただく。先の2人組はすでに説明を受けた後のようだ。僕はいっしょに入って来た女性と説明を聞く。まだドキドキしている。額に汗を感じている。しかし、ハンカチを出して拭くのも何だか恥ずかしくてそのままにしている。コーヒーを頂けるということ、コーヒーに合うプリンも追加で頼めるということ、これからの時間は静かに過ごしてほしいということ、写真撮影は最後に許可が出てからにしてほしいということ、そのような話があった。それから、建築家がこのカウンターのテーブルを背もたれにして、庭を見ながら本を読むのを推奨しているということも。
 僕はまず右端の棚から順にすべての本のタイトルを見ていく。あとからもう1人女性が入って来たから、定員6名のところ、5人がこの時間にこの空間を共有しているということになる。男性は僕1人。周りにいる人の顔を見ることもなく、僕は本の背表紙にだけ目を向ける。次第にみな本を手に取り、自由に居場所を決めて、読書を始める。僕は何を読むかなかなか決められない。たぶん僕だけだと思うが、何を読んでいるかを他の人から聞かれるのではないか、あとでどんな内容だったかと聞かれるのではないか、などと気にしてしまい、自由に選ぶことができないでいる。自意識過剰である。結局は、その後、誰とも関わることなく出て行くのだが。
 何冊か、今まで読みたかったが手にできていない本があった。全く知らない本との出会いも期待していたが、ここで、この90分で読み切れるわけでもなく、書店の立ち読みと同じように、先を読みたいと思えるかどうか確認する意味で、少し分厚めの本を手にすることにした。気になったのは、何冊も読んできた石牟礼道子の「苦界浄土」三部作を1冊にまとめた超分厚い本。重たそうなので手は出さなかった。二部、三部は文庫にならないのか。エヴェレットの「ピダハン」。一旦、手に取ったもののもとに戻す。ガルシア=マルケス「百年の孤独」。これを手に、一段高くなった畳の上に腰を下ろす。左手に柱があり、疲れたら少し体をあずけることができそうである。
 コーヒー豆を挽く音が聞こえ始める。どうやら1人1人、1杯1杯コーヒーを淹れてくれるようだ。先に本を読み始めた人から出していくのだろうか。僕のところにはなかなか届かない。そんなことが気になっていると、文章がいっこうに頭に入ってこない。2ページほど読み進めてみたが何が書かれていたのか、全く残っていない。夏目漱石などの古典は最初の50ページは我慢して読み続けること、と子どもたちにも言ってきた手前、ここであきらめるわけにはいかないのだが、限られた時間である、読めそうなものに取り替えることにする。
 もう一度本棚の前にもどる。次は、ハンナ・アーレント「全体主義の起源」。1冊目をもって先ほどの場所にもどる。まえがきを読み始める。ほどなくしてコーヒーが手元に届く。しばらくは口をつけずに本を読み進める。1つめのまえがきを読み終わったので、コーヒーを口にする。苦すぎることなく、酸味が強いということもなく、時間がたったせいかもしれないが少しぬるめで、のど越し良くいただいた。だいたい、家では妻が淹れた後のレギュラーコーヒーに、もう一度お湯をそそぎ、ずいぶん薄いコーヒーを好んで飲んでいる。マクドナルドの100円のコーヒーでもおいしいと思っているし、ときどきはドトールとかスターバックスとかでも飲むがそれほど差は感じない。星野珈琲や小川珈琲で最初に飲んだときはおいしいと思った記憶があるが、豆による違いとかはよく分からない。ただ、日本酒でも同じような感覚になったことがあるが、今回いただいたコーヒーは、ちょうど初めて八海山の大吟醸をいただいたときと同じ感覚だった。くせがなく、すっとのどを通って行く感じがした。
 さて、本にもどると、次はヤスパースによるドイツ語版へのまえがきだった。アーレントは確かドイツ人だったと思ったが、まだドイツではあまり知られていないからという理由で自分が頼まれたと書かれている。そうだったのか。次にもう一度著者自身のまえがきがある。結局読んでいてもユダヤ人の話ばかりで、全体主義がどうなのかに全くつながってこなかった。いや、僕の頭の中だけがそうなのかも知れない。いずれにしても、これはもう少し読んでみてもいいかもしれない。確か文庫もあったはずだし。ついつい新書にばかり手が伸びてしまうが、定年退職後は新しいものより古典的なしっかりした書物にじっくりと向き合っていきたい気分だ。
 さて、そうこうしているうちに80分ほどが過ぎている。僕は本をもとあった場所にもどし、トイレに行き、その近くにあった大型の本を手にする。「武満徹の世界」その中の谷川俊太郎が書いている文章を読む。それからこの建物を設計したという建築家の堀部安嗣作品集を手に取り写真をながめる。そこでちょうど90分になる。そこまでで利用時間は終了である。厚手のグラスに注がれていた白湯をもう少しいただいたあと、カウンターにもどす。そして、写真を撮って良いと許可をいただいた上で、数枚写真を撮らせていただく。その後、ダウンを着て、ロッカーを開けリュックを手に一番に外へ出て行く。もう少し中にいれば何かがあるかもしれないという思いに、薄くなった後ろ髪を引かれながら。

復路で考えたこと


 また、スマホを片手に駅に向かう。30分の道のりである。スマホの扱いにもたついていると、1人の女性が僕を抜かしていく、初めに声をかけてきた女性ではないようだ。そのあとは、全然誰も出てくる気配がなかった。僕はやっと歩く方向が定まって足を進める。帰宅途中の小学生に混じって、何人か向こうからやってくるスマホ片手の人々と出会う。この人たちもきっと図書室に向かうのだろう。僕は、叡電の駅に向かえば先ほどいっしょだった女性たちと一緒になるかもしれないと思いながらも、地下鉄の駅に向かう。のどかな田園風景を写真に収めたりしながら。たいがい帰りは早く感じるものだが、そのときもかなり早く感じた。時計を見るとほぼ30分で変わりはないのだが。


 地下鉄の中では早速今あった出来事をTwitter(ⅹ)に書く。何枚かの写真とともに。誰かに見つけてもらえるかもしれないと思いながら。そして、誰かを見つけようと#鈍考で検索してみる。それほど多くはない。何人かにいいねをつけて、1人フォローする。フォローバックされる。それでおしまい。よく考えると圧倒的にInstagramの方が多いのかもしれない。確かに検索すると多くの写真が出て来る。僕はいったい何を見つけようとしているのか。スケベ心があるわけではない。何らかのつながりを求めているのかもしれない。僕は本を読むことが好きである。同時に書くことも好きである。書いていると読む時間が割かれるので、なるべく読む時間を多くしたいが、書いて誰かに読んでほしいとも思う。自己顕示欲が強いのか。自分と興味が重なる人とつながりたいと思う。共通の話題で話をしてみたいと思う。自分と受けとめ方が違ってショックを受けることもあるが、それでも話ができること自体はうれしい。少し興味がずれる人とつながることで、自分の興味の幅を広げたいとも思う。いまの自分にとってそういう関係にある人はわずか3人くらいである。妻はほとんど本を読まないから話にならない。ブクログに記録をすることで、あるいはTwitterにつぶやくことで、何らかのつながりができることを期待しているのだと思う。仕事と家庭以外でのつながりが必要なのだ。何らかのコミュニティか、アソシエーションとでもいうのか、それともファンダムなのか、何らかの興味関心が重なる人とのつながりができるとうれしい。そういう意味では、今回訪れた京都鈍考は、とても孤独な場所であった。
 僕は地下鉄を途中下車し(定期があるから)四条のくまざわ書店で何冊かの新書にひかれながらも小宮豊隆「漱石先生と私たち」(中公文庫)だけを買って帰って来た。

その夜


 妻に今日あった話をするが興味はなさそうである。僕が若い女性と出会ったと話しても、そんなハゲのオッサン相手にするわけないでしょ(実際に言われたわけではない)、という感じである。僕は妻が職場で若い男性と話している様子を聞いたりすると、内心穏やかではないのだが。
 工務店に勤めている娘に堀部安嗣という建築家を知っているかと尋ねる。あっ、知ってる。オンラインだけど、セミナーで話を聞いた、と答えが返って来る。良かった。めったに娘とは会話が成立しないので、ウンとかイヤとかではなく、文章で返事が返ってきたのがうれしかった。

2023年12月20日

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