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【就活講座】グローバル人材のマインドセット④「なになにで「なければならない」ことはない、しかし「あるべき」理想はもってもよい」

これまた、禅問答のような言葉である。今回も二つの言葉がセットとなっているが、これには深いわけがある。

世界で仕事をする場合、いや単純に海外旅行に行った時でさえ、われわれ日本人とかの国の人たちとの間での考え方や習慣の違いに驚かされることが多い。実は、「われわれ日本人」といったが、本来、ひとりひとり違った存在であるので、同じ「日本人」だとくくるのも、かなり大胆かつ大雑把なことであるが、海外で、明らかに見てくれが違っていたり、あるいは微妙に感覚が違う人たちと接すると、結局、自分たち日本人の同質性に気づかされることが多い。

日本人論については、おそらく明治時代以来、何万と書かれ、いや個人的な口頭でのシェアリングをふくめれば、あまたの日本人論、外国人論が語られてきたと思うが、実は、今でもわれわれが想像もしないことが現実にありうる。テレビ番組が始まってから、外国文化紹介のドキュメンタリーやクイズ番組、さらにはバラエティ番組がいくどとなく、とぎれることなく人気番組として高視聴率を呈しているのはわたしが言うまでもないことである。

さて、開発援助に携わるわたしの仲間との会話においても、この「どこどこの国で、こんな信じられない体験や経験をした」というのは定番中の定番である。つまり、観光旅行では決していかない(いけない)地域や、仕事で現場にどっぷりと滞在したり、なんらかの事業を現地のひとたちと共同でおこなおうとすると、思いもよらない人間としての反応に出会うことがある。

もちろん、その地域の自然環境と人びとの営みに驚くことも多いが、本当にびっくりするのが、考え方や価値観にわれかれの違いと差を感じるときである。すぐに実例は出せないが、久しぶりに援助関係者が出会ったときの最大の話題が、「わたし今までかなりの価値観にふれてきたけど、こんなこと初めてだった」という自分の「常識外のこと」にふれた、素直な驚きと感動であったりする。

そこで、標題に戻ると、結局、海外でわけのわからないものに接すれば接するほど、果たして「絶対の真理」なんかあるのだろうかと自分が「常識」だとしてきたことが疑わしくなってくる。さらにいえば、自分が立っている足元そのものがグラグラしてきた感覚とでも言おうか。「絶対ということは絶対にない」という言葉があるくらいであるが、結局、開発援助の現場で求められるのは、「最適解」であり、絶対的な解ではないし、さらにいえば、その最適解が「正しいかどうか」は実はあまり関係ないことも多い。

つまり、その場にいるみなが納得できるかどうかである。これは、ワークショップやファシリテーションで、表面的に場をまとめるという低レベルまではいわないが、テクニカルな問題では全くない。わたしが、「地域開発と参加」にこだわって研究と実践をしているのは、まさに、その現場にいる人たちにとって何が一番に望ましいのかに近づこうとをしているからに他ならない。

わたしは、フィールドワーク、ワークショップ、ファシリテーションのあり方や実践方法について、かなりこだわっている。そのあり方やメカニズムについても、自分なりの考え方やモデルを提示したいと思っている。しかし、それが簡単なものでないことは、上記からもうかがえると思う。したがって、今の時点で、マインドセットとして伝えたいのは、自分の常識を当たり前だと思わないこと、いくら自分と異なる他者にあったとしても、なにか正しい答えがあって「なになにでなければならない」と決して思わないこと。この点だけを強調しておく。

ちなみに、蛇足ではあるが、わたしは、これが「正しい」なになにであるというタイトルで本を書く人の気が知れない。それは、あなたがそう思うのであって、特に長く論争の続いているいろいろな意見や実践のある分野に関しては、それらあまたの論者の先達への敬意と、いくらいろいろな人がチャレンジしても思うように「正しく」あるいは望ましく変わっていない現状があるという事実に対しての謙虚さがあってしかるべきであろう。

つまり、このマインドセットの一番最初にのべた「ありのままに現実をとらえる」ことが必要となってくるのである。

そして「あるべき理想」はもってもいいというのは、いままでのべてきたことと、矛盾するようであるが、これは、それを自分として持っていてもいいが、人に押し付けたり強要するものではないということである。自分自身、振り返ると若い頃は、かなり理想主義者で、宝塚ではないが、「清く正しく美しく」かくあるべしという自分なりの想いが全面にでたことが多々あった。しかし、現実は、そんな青二才の甘い理想論だけではビクともしなかった。

開発コンサルタントでも営業やバックヤードの仕事に深くかかわったので、結局、ものごとを動かすには、清濁併せ呑んだうえで、かなり策略的にピンポイントでツボをおさなければならないことも学んだ。つまり、きれいごとだけでは、世の中動かないし、動くわけもないのである。

以前といっても15年ほど前になるが、開発コンサルタント仲間で、「蓋然性って大事だよね」という話になった。偶然でもなく必然でもなく蓋然性なのである。「偶然は必然」という言葉があるが、それとは別に、蓋然という言葉の意味するところは深く、ある程度、予想がつくということと、コントロールする可能性もあるというところが、偶然とも必然とも違う。

似たようで異なる「恣意的」という言葉もまた重要である。世の中、善意や悪意だけではない「恣意」というものがある。結局、蓋然性と一緒で、恣意という言葉があるということは、人間は感情の動物で、自分の例えば、善意や悪意とかの意識だけではコントロールできない何ものかの感情があるということである。この思い付きというか気まぐれが、とんでもない事件を起こすことは、古今東西をみて常にあったことで、あらためて、わたしが言うまでもない。

つまり、この項の結論は、第1項でのべたように「現実をありのまま」にみて、「なになにでなければならない」という自分だけの思い込みから放たれること、しかしそれは自分の「あるべき理想」を手放すわけではなく、現地の人が納得できる「最適解」あるいは「次善の策」を求めること。可能であれば、みなで一緒に考えること、ここまでが最低限、開発コンサルタントとして求められていることである。

その上級編として、自分の理想に近づけるためには、蓋然性を装いながら裏から手をまわすということをしたりもする。でも、浅いレベルの策略は大体うまくいかないのが常でもある。つまり、あってほしい理想と、なかなかそうはならない現実との間で悶々とするのが、結局、開発コンサルタントの楽しさでもあるのだろう。

今までのべてきた言葉の背景にあるリアルな話は、守秘義務などで簡単には表に出せない。しかし、国際共創塾の講義の中では必要に応じて、適宜、ふれたいと思っている。

この項 了

初出:国際共創塾―ともにつくる未来 2020年5月5日

http://www.arukunakama.net/worldJinzai/2020/05/post-1f92e3.html

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