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始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか)※1999年11月21日

久方ぶりに、筆を取る気になった。そもそも、このような個人的な発信は、本人の内在的な欲求の発露というか、単なる個人的な気まぐれから始まることに間違いはない。

だが個人的な理由であれ、それは、やはり、この数年の、時代の移り変わりの激しさと、それに呼応する個人的な状況の変化による必然的な欲求であったような気もする。

しかしここでは個人的な理由に絞って、簡単に振り返ってみる。1992年に、大学を卒業した私は、半年ほど浪人を過ごした。それまで、高校、大学と一応第1希望というかストレートで歳を重ねてきた自分にとっては、初めて自分で自分の行く末を考える始まりとなった。

経緯は省くが、縁あって中途採用という形で、1992年9月5日付けで、ある開発コンサルタント会社に就職することとなった。今思うと、極めて幸福で奇跡的な出会いであったと思う。就職活動を振り返って、結果として一番よかったと思えることは、大学4年生の時に、あせって就職活動をしなかったことだ。

体育会系のヨット競技部に所属していた自分は、同期5名のなかで、4年生のクラブ終了後に海外留学が決まっていたり、留年して世界放浪に旅立つ予定の友人たちが、正直言ってうらやましくてたまらなかった。

大学3回の時に留学に応募できず、4年生のクラブが終わった後に、やっと受かったエジプト政府の奨学金も“湾岸戦争”などというもので、辞退という結果になった。(エジプト自体は比較的安全であったとか、実際の留学する時期には、あまり影響はなかったという話を後で聞くが、それはそれでみずから留学を断念したことにはかわりなく、後悔はしない。)

ちょうどそんなころ、いわばやけくそ的に取り組んでいたのが、大学3年生の時に新規開講となった『地球環境論』という各講師持ち回りの連続講義とそれにかかわるエクセトラである。そこに、若くて活動的な諸先生方と、「環境論友の会」なるものを共に立ち上げようと一緒にビラを作った友人との出会いがあった。

そして、専攻語に対して取り組んだのは、『アラブ・イスラーム学習ガイド』なるものの刊行である。確かに4年生としては卒論というものがあったが、11月頃まで、この個人出版の本の原稿づくりに励んでいた。いずれにせよ、そのビラ作りと本作りが、今の自分を型づくる背骨の大きな一本であることは間違いがない。

さて、その大学時代に感じたことは、「知は力なり」ということに加えて「その知とは、すべからく(万人に)開かれたものでなければならない」ということである。

大学で勉強を進めるうちに思ったのは、今思うと随分乱暴な考え方と思うが「なぜ専門家は、自分の研究のみにかまけてしまうのであろう」ということであった。まさに、「浅学を顧みず」一冊の冊子に自分の見たこと感じたこと、大学で学んだことをまとめようと思ったのは、少しでもそれを後から続く人たちに踏み台にしてほしかったからである。

長い前書きになったが、その本の中で、「あとがきにかえて(旅行の勧め)※」を書いたのだが、その言葉を受けて、まさに“今”の自分が改めて筆を取ろうとしている。(※ 下記に転載)

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あ と が き に か え て(旅行の勧め)

 近年、マスメディアの、特にテレビの発達によって、瞬時に、世界中の情報が、それも茶の間で知ることが出来るようになった。しかし、テレビに徹底的に欠けているもの、それは匂いであり温度であり、曖昧な言い方だが、要するに雰囲気(アトマスフィアー)とでも言うものであろう。いくら、テレビ技術が発達しても、結局、音と映像だけの世界でしかない。俗に、五感というが、私達が物を認識しようとする場合、さらには体感しようとした場合、果たして聴覚、視覚だけ分かったと言えるのであろうか。

 「コピー文化」という言葉がささやかれるようになって、すでに久しいが、日本のこの状態はどうもおかしいし、まずいと思う。疑似体験(体験とは言えないと思うが)だけで、分かったような気になっている。最悪の例が先の、テレビのシュミレーションゲームそのものと言われた湾岸戦争の報道であろう。私達は、連日のように湾岸地帯の映像を、イラクへの爆撃さえをも見ていた。 しかし、一体誰が映像の向こうにいる人々の痛みや悲しみ、怒りを感じることが出来たのであろうか。イラク兵も、多国籍軍兵も、さらには一般市民も、断じて、決してゲームの基盤のうえの駒なんかではない。

 実は、正直に告白すると、私は、まだアラブの地を踏んでいない。湾岸戦争のことなど、言い訳はいくらでもあるのだが、それはともかく、今までずっと述べてきたこと、すなわち体感するためには絶対に現地体験が必要不可欠である。もし、留学というものが必要であるとしたら、その本旨は、書物や、外側からだけでは解らない生活そのものに触れる事ではなかろうか。チェアー・ディテクティブではだめだと笑われるかもしれないが、この目録ぐらいのことは出来るということは、特記してもおいてもよいであろう。

 さて、イスラームの大旅行家であるイブン・バッツゥータが、29年間にもわたった大旅行に、故郷のタンジャから旅立ったのは、彼の22歳の時であったことを、ふと思い出した。私も、近々その年齢を向かえる。旅立ちへの期待を胸に秘めつつ筆を置くことにする。

1991年11月11日

執筆者しるす

柴田英知 1991 『アラブ・イスラーム学習ガイドー資料検索の初歩』

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つまり、自分なりに“旅”に乗り出した自分を感じるからである。就職後、8年目にして、ようやく自分自身をみつめなおす時間が持てるようになった。とにかく5年目ぐらいまでは、仕事を覚えることで精一杯だった。

大学を卒業して、就職が決まってやっと自分のパスポートをつくってヨット部の仲間といったのが、タイである。そして、スペインからイタリアへの個人旅行を経て、大学卒業2年目に、初めて“アラブ”を訪れた。

その初めてのエジプトの地は、あまりに自分の想像していたものと程遠かった。駆け足で回ったまさに典型的な観光地で“外国人”目当てによってくる“アラブ人”(エジプト人、ヌビア人といってもいいだろう)に、片言のアラビア語は全く通ぜず、「おまえのアラビア語はわからないから、英語で話せ」となんども“英語”で言われた。

3年目を過ぎることから、ようやく海外出張に出してもらえるようになったが、つい半年前まで、その出張とは必ずしも楽しいだけのものではなかった。

会社の出張で初めていったのが、アラブ首長国連邦のドバイ(ここもアラビア語圏ではあるがパキスタンなど出稼ぎ労働者が多く、アラビア語というより英語のほうをよく街で耳にした気がする)、アフリカの角にあるエリトリア、西アフリカの象牙海岸国、ブルキナ・ファソ国など、いずれもほとんどわからない現地語と中途半端な自分の英語力に泣かされた。

しかし、今年の1月から仕事として、再びエジプトに乗り込むこととなった。1月に1ヶ月、5月から3ヶ月間、9月から2週間、今年は、まさにエジプトにどっぷりつかった1年であった。ようやく、初めてエジプトにあって感じた違和感、居心地の悪さを自分なりに消化してきたといえる。

今、この仕事等を通じて現地や現場に接したことを思うと、先立つ“勉強”は必要かもしれないが、逆に“先入観”や思い込みばかり強くなって、最初のエジプトに行った時に感じたように、知識と現実のギャップの大きさに自分が振り回されてしまったようだ。(実は、大学時代に苦労して読んだ“専門書”の内容は、当時、全く何が書いてあったのかわからなかったし、記憶に残っていないように思う。)

やはり自分がちゃんとわかるようになってから、初めて触れるべきものがあるのだろう。「すべての個体は、個別に進化を繰返す」という言葉を聞いたことがあるが、まさに、すべからく誰もが身をもって経験により“知っていく”のであろう。

今の仕事の日々は、まさに“走りながら考える”日々である。

ここに、“歩きながら考える”というタイトルで再度、筆をとろうと思うのは、あの時“跳べなかった”自分へのなぐさめであり、“実際に歩きながら考えないといかん”という自戒を含めた、まさに跳ぼうと考えている人たちに対する励ましであろうと願うからである。

(この項 了)

初出:
始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか) その1その2 1999年11月21日 HP版 歩く仲間―歩きながら考える世界と開発


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