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公園だもの・4月だもの 「作る写真」「作れない写真」「作らない写真」

私は理屈っぽいことが好きなので、写真に関しても実際に撮っている写真と考えていることがズレまくっています。考え方自体もコロコロ変わるので以前書いていたことと矛盾してくることもよくあります。

ただ、その時点でどんなふうに写真と関わりたいかを考えることは大切だと思っています。頭で考えているよりは文字にすること、文章にすることで少しはハッキリできればと思い、ここに投稿しています。

言うまでもなく写真の正解など書けません。それで突っ込みどころがいっぱい出てくると思います。それでも読んでくれた方の、ご自身の写真観を考える参考に少しでもなるならとてもうれしいです。今回も考えていることの整理のつもりで書いてみたいと思います。

写真は楽しみのため、自己表現のため、つまりアートのために撮られるだけではないですよね。表現以外に撮られる写真を考えていたら次の3つに分けられるのではと思いました。①「作る写真」②「作れない写真」③「作らない写真」です。

①まず、「作る写真」とは広告写真的写真です。くどいので以下、代表的な「広告写真」として書きます。「広告写真」の中心にあるのは願望、希望、理想、夢、快感などです。

それを手に入れたらどんなに楽しいか、便利か、安心か、美味しさ・快適さなどの快感を得られるか・・・そう言ったことを伝えるために撮られます。

それは時間軸で言えば「未来」です。いま、ここにないモノ、未来に得られるモノをイメージさせることを目的に撮られる写真です。

②次の「作れない写真」は「報道写真」「ドキュメンタリー写真」です。「報道写真」の中心にあるのは真実、事実、現実、現状です。

われわれの暮らしている世界で何が起こっているか、どのようになっているかを伝えるために撮られます。

それは時間軸で言えば「現在」です。「今」起こっていることを正確に早く伝えねばなりません。また、未来に伝えるとしても、伝える価値があるかを判断するのは「今」です。

もちろん捏造、ヤラセはアウトです。「作れない写真」とは「作ってはいけない写真」のことです。

③そして「作らない写真」は「記念写真」です。その代表的なのが「家族写真」「ファミリーフォト」です。

「記念写真」の中心にあるのは記録、または記憶です。プライベートの場合は第三者に伝えることは目的ではありません。パブリックの場合も的確に残すことが目的です。

それは思い出とも言えます。楽しい出来事、華やかな出来事、そういったことを忘れずに残しておこうとして撮られます。楽しい時間を冷凍保存するわけにはいかないので写真というモノに保存するのです。

それは時間軸で言えば「過去」です。その写真を見る時、思いは過去の時間に向かいます。

「作らない写真」とは「作る必要のない写真」のことです。楽しい経験や記念すべき出来事を捏造する必要はありません。

いつものことですがちょっとこじつけのような内容になりました。自己表現のため、つまりアートのための写真にしても①「作る写真」に含まれると思います。自分の撮った写真を作品にして見てくれる人がいるであろう「未来」に託すのです。また③「作らない写真」もプライベートを超えて普遍的な価値を持つことでアートになり得ることもあると思います。

             (2024年4月中旬・東大阪市、花園中央公園)

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