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【論考】キャラクターをつくる責任 つかう責任

日本人はキャラクターが大好きだ。
主語がデカすぎたかもしれない。たぶん、結構好き。

地域の特産物から、刀や戦艦さえもキャラクターにする。キャラクターアイコンやアバターを掲げて自身を表現するのも、日本人特有の文化らしい。それゆえに、海外のひとびとは「Japanese Hentai!」と叫ぶのかもしれない。

キャラクターの定義

キャラクターとは人柄や性格を指す場合もあるが、本記事では主にアニメや漫画の登場人物を指す。

キャラクター〘名〙 (character)
① (人の)性格。性質。ひとがら。持ち味。また、特に芝居映画、小説、漫画などの登場人物役柄をいう。
※明六雑誌‐三二号(1875)国民気風論〈西周〉「此地質上の性質と前の政治并に道徳上の気風とは相待て成る者にて、両相合して我が日本国民の現在の気風(ケレクトル)とは成りたるなり」
※にんげん動物園(1981)〈中島梓〉五〇「コミカルなキャラクターの方へ比重がかかってゆき」
② 一体系としての文字記号
(イ) 表意文字。漢字。
国語のため第二(1903)〈上田万年〉仮字名称考「文字の義なる字(キャラクター)の語を、人の名・物の名・所の名などいふ名(ネーム)の訓にて解せしこと」
(ロ) コンピュータでデータ処理に用いる要素として定められている単位で、文字をいう。数字、英字仮名、漢字、間隔等の図形文字と、伝達書式、装置制御、情報分離等についての制御文字とがある。「キャラクターマシン」
③ 広告宣伝物または広告活動が一貫してもっている個性。企画から展開の過程で独自に創造するものや有名人、動植物などを利用する場合などがある。

引用:コトバンク

80年~90年代初頭は「おたくもなかなか、やりますな」と言い合っていたオタク。そのオタクを取り巻く文化はいつしかオープンにしても差し支えない、カジュアルな趣味・嗜好として語られるようになった現代では振り返る機会もなかなかないが、アニメ・漫画が大衆的なものとなったのは1995年放映開始の『新世紀エヴァンゲリオン』が最初の転換期となったのではないかという説もある。(2005年ごろ、机の中のラノベがクラスメイトの陽キャに見つかった日にはクラス内で晒し上げされたものだが……)。

一般的に、流行の周期はちょうど20年とも言われている=世の中の流れが変わるサイクルはだいたい20年なのだろう。キャラクターにとっても、ちょうど転換期なのかもしれない。2000年以降、バーチャルシンガーの初音ミクや(2007年~)、キズナアイ(2018年~)を始めとしたVtuberなど、キャラクターを介在させた新たなビジネスも数多く誕生した。

そんな背景を踏まえて考えていきたいのが、「キャラクター(アバター)を纏う」ということ。

「ぐう聖」キャラの中の人も「ぐう聖」であるべきか

「ぐう聖」というネットスラングがある。元々は2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)のなんJ板で使われていた表現で、「ぐうの音も出ないほどの聖人」の略。日ハム小笠原に対して使われていたが、いつしかなんJの枠を飛び出し、キャラクターやYoutuberなどの善行を確認した時「う〜む、これはぐう聖!」と幅広く使われるようになった(と思われる)。

参考:https://wikiwiki.jp/livejupiter/%E3%81%90%E3%81%86%E8%81%96

そこで2つの事象を事例として紹介したい。

Vtuberのスキャンダル(アバターと「中の人」の乖離)

2022に発生したVtuber解雇までの一連の騒動。本質は交際疑惑スキャンダル炎上でのパニックが起因となり第三者へ情報漏洩→事務所解雇だが、感触としては前者のスキャンダルが異様な騒ぎだったことを覚えている。「V」の世界について浅学ではあるものの、三次元アイドル・タレントのスキャンダルよりも強い憤りと哀しみのコメントが見られたように感じた。

二次元のキャラクターと三次元のアイドルはそれぞれコンセプトにお膳立てされた属性・肩書きでしかなく、Vtuberはキャラクター的アバターと「中の人」の二重構造だ。提供するコンテンツもキャラクターを身近に感じられる「雑談配信」「雑談をまじえたゲーム実況」などが多い傾向にあるためか、一層裏切られたような感覚になったオタクが多数爆誕したと思われるケースである。絵が喋っているのはアニメと変わらないのに「中の人」ありきのキャラクター(アバター)は「ぐう聖」を求められる。

フリーアイコンとイメージ(キャラクターが作家の手を離れた時の危うさ)

2022年ごろTwitter(現・X)で見かけた「自身が厚意で頒布していた人物イラストをSNSで使っている人たちが高圧的なpostを繰り返す傾向にあり、『このイラストアイコンの人は怖い』というイメージがついてしまった。他人の絵をアイコンにしている人たちはちょっと気をつけてみてほしい」と悩むイラストレーターの主張が印象的であった。

概要を引用できる元URLが見つからなかったため、手放しの説明で恐縮だが、描き手つくり手の意思に反し、SNSプロフィールアイコンというかたちでイラストレーションそのものにイメージが染み込んでしまった事例だ。アイコンも先述のアバターと同様に「中の人」がいる。汎用のオリジナルキャラクターイラストが頒布されたことで多数の「中の人」が生まれてしまったことで起きたケースである。

これは作家によるオリジナルキャラクターだけではなく、芸能人の写真や商業アニメ・漫画キャラクター等にも言えることであり、「このアニメキャラのアイコンの奴は問題を起こしやすいよな」というイメージの伝播も数多のコミュニティで見られるため、複製できるキャラクターを纏う場合「ぐう聖」であることに越したことはないと言えるだろう。

キャラクターをつくる責任/つかう責任

先ほど紹介した事例はここ数年のインターネットで観測できた氷山の一角に過ぎないが、アニメ・漫画文化からイラストレーションや美術の文脈まで、ある意味大衆化したキャラクターには「つくる責任」「つかう責任」がそれぞれ発生していることが分かる。

80〜90年代にはアバターが重視されるビジネスやSNS、コミュニティなんてものは今ほど無かったし、キャラクターに責任が伴う必要性がなかった。しかしながら、キャラクターがロールプレイングだけではなく、人が纏うアバターの役割を多く担うようになった近年は「責任」とうまく付き合っていく必要がある。

しかしながら、今後キャラクターが発出するすべてがぐう聖とならなければいけないのであれば、本来「character」という言葉が持つ「ひとがら、持ち味、個性」という意味合いと矛盾することになる。これはいったい、なんなのか。


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