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ジェンダーとメンタルヘルスのこと【#3】

『脱コルセット運動』から探る、身体の客体化から解放されるためのヒント

ゆうきさんから受け取った次のバトンのテーマは、ジェンダー問題には具体的にどんな問題が存在し、今までどのような取り組みがあったのか。

ジェンダーの問題が個人のメンタルヘルスにどう影響しているのかを考えた時、大きな問題の一つに、ジェンダーを基準にした着飾り方や見た目、身体に対しての無意識のバイアスが個人に与える影響力について、無視することができないと感じています。

例えば、中学·高校で多くの方が経験したであろう学生服や髪型の校則。これ一つ取っただけでも、「男の子らしさ」「女の子らしさ」など身体的な性別のみが一方的に強調され、区別された身なりを求められる。制服を着た女子高生に至っては、女の子らしさ、可愛らしさ、美しさ、ナイーブさなど、見た目に様々な意味合いが付随されて客体化、アイコン化されていますよね。

このような、社会が規範とする服装·見た目に関わるイメージやそこに付随する価値観が、個々人のボディイメージ、そしてメンタルヘルスにどのような影響を与えているのか。それは、個人が実感しているよりも実は、深刻な問題なのです。

そこでこの記事では、性別に基づく社会的規範や価値観の崩壊を目指すために生まれた韓国の『脱コルセット運動』を紹介しながら、ジェンダー問題を身体の客体化を軸に特集、社会が求める規範的女性性から解放されるためのヒントを提案してみたいと思います。

『脱コルセット運動』って何?

みなさんは、男性服と女性服の着心地を比べたことはありますか?

女性服といえば、デパートの店頭に並ぶ綺麗な洋服の光景が思い浮かぶ人は多いのではないでしょうか?細身のモデルのようなマネキンに似合うファッション。それは、ウエストラインが細く動きにくかったり、ポケットや機能的な部分が削られてたり、汗を吸収しにくい生地を使った見た目を重視した洋服が大部分を占めています。一方で男性服はというと、機能性や着心地を重視した楽で動きやすい服が多いこと。

このような違いは、服装に限ったことではありません。例えば、化粧を日常的に求められるのは女性だけ。その化粧に人は朝の忙しい時間をどれほど使っているのだろうか。または、最近話題になった#KuTooはどうでしょう?なぜ男性はローファーでも良いのに女性はハイヒールを履かなければならないの?

普段当たり前に感じているこれらの日常を細かく切り取ってみると、見た目に関する労力やコスト、精神的負担、機能性の違いには性別を区切りに、大きな差があることがわかります。

社会が求める規範的女性性とは、なんなのか。それはそもそもどのような価値観や思想から生まれているのか、それらを考えていくと、辿り着くのが、“女性の身体は機能性よりも装飾的に扱われているような”“相手から見られた姿を意識しなければならない”客体化現象。これに囚われるがために、本当に自分のしたいことよりも、相手から見た自分を優先し苦痛を伴う生き方を選んでしまう人は少なくはありません。

その全てにNOを突きつけるための活動に、現在韓国では、『脱コルセット運動(脱コル)』という、髪型をツーブロックにバッサリ切って、ノーメイクに楽な過ごしやすい格好を実践していく女性達が増えているそうです。それはまさしく、タイトで見栄えの良いドレスを着るためにわざわざ着用している、体型をカバーするためのキツいコルセットを脱ぐ行為のよう。

この脱コルセット運動は、女性たちが自身の身体に内在する、社会的に規範とされる客体化された女性性から解放され、『男性』達がすでに実践しているように『人間』らしく生きる、その意識改革を起こすことを目指すための試みです。韓国のフェミニズム運動が盛んになった2016年以降に徐々に始まっていった、とても最近の運動です。

客体化って何?

客体化 (objectification) とは、文字通り、誰かの身体を客観的に見ることを指す言葉です。これは、商品の棚に並べられた人形を品定めするような感覚に近いでしょう。

この品定めの対象が自身の身体だった場合、自分の身体が他人から評価されているような目線で見られている、と感じてしまうのは当然でしょう。そして、相手からの価値観を通じて評価された自身の身体に対して抱いてしまう自己イメージ、ボディイメージの様子が、自己客体化 (self-objectification) と呼ばれています。

相手からの価値観が、皆バラバラであればそこまで意識せずにいられるものの、人の価値観はその人が生きる文化や社会に大きく影響を受けています。そのため、「ある一定の体型や見た目」を基準にした規範的に美しい、または相応しいとされるもの、逆に、美しくないもの、相応しくないもの、など、良し悪しの基準が決められた価値観がその共同体に存在し、それを元に相手からのジャッジメントが飛んでくるのです。

そうすると、その基準に当てはまれない自分が、まるで悪いかのように感じてしまう。例えば、日本社会と女性の化粧を例に挙げるとすれば、女性が化粧をしないで出勤すると、まるでその女性は人前に出るには相応しくない、だらしない、プロフェッショナルでない、恥ずかしさを感じて当然である、といった価値観が社会全体に「常識」として存在し、女性の化粧無しのすっぴん姿をこっ酷く評価してしまいます。

こういう価値観が日常の至る所で、本人の身だしなみ、着こなしに当然のように与えられている。そして、その社会的な規範に縛られて生きている中で、それが、体型や見た目などボディイメージにまで及んで影響することは、考えてみれば当然のことです。それは、すっぴんの素顔が恥じるべき存在となってしまったり、一部の体型の人にしか合わない窮屈な服が着れないとまるで、自分の体型に非があるのではないか、と感じてしまったりする感覚。それが、自身の身体へのイメージをネガティブなものへと変化させていく火種となります。

客体化がジェンダーと交わる時

客体化現象は性別に関わらず起きており、ボディシェイムや摂食障害に苦しむ人は、女性に限定されたことではありません。

しかし、韓国の『脱コルセット運動』がフェミニズムと強く結びついているのは、客体化の要因に、ジェンダーを基準にした不公平な力の関係が存在することが理解されているからです。

例えば、女性が求められる動きにくい見た目を重視した服装や、長時間の着用は身体に悪影響を及ぼすハイヒール、時間とお金がかかるメイクアップなど。これらの必要性は、正直なところ「見た目」以外の何物でもありません。動きにくさ、機能性の悪さ、不快感を与えるものをあえて女性にだけ求めることに、どのような社会的意味があるのか。

機能よりも見た目、装飾のように扱うことを良しとする価値観。それは、家父長制度の構造の、夫が妻を所有物のような存在として扱ってもよいとする力関係に遡ることができます。

中国に過去に存在していた悪習『纏足』は、女性の足が小さい方が美しいとされた価値観から、女の子の足を小さなうちから折りたたむように縛り矯正する風習でした。小さい足の女性ほど「美しく」結婚に困らなかった、というこの「美しさ」の価値観には、実は、女性の足を動きにくいようにすることで夫から逃げられにくくする、という意味も付随していたようです。

このように、女性に一方的に苦痛を強いる「美しさ」が男性を優位な立ち位置とする家父長制度を補強する材料となっていた、このような背景が、現代でも、さまざまな形で残っているのではないか。その一例が、化粧であり、ハイヒールであり、動きにくい服なのではないか。そこを脱コルセット運動はとても強く指摘しており、そこからの脱却を目指しています。

脱『社会的規範性』の難しさ

以前、わたしの個人ブログで、『More than a body(身体以上のもの)』という本を特集しました。この本は、身体の客体化現象が個人のボディイメージに与えるネガティブな影響力についてを社会様相から探求するアメリカのボディイメージ研究者·カイト博士達による研究をまとめた内容です。詳しくはこちらをご覧ください。

その中で、わたしはこの本を読んだ感想として(ブログの中で)、今まで当たり前のようにしてきたこと(例えば久々に会った友達に「その服、可愛いね」と着飾りに対してコメントを寄せるなど)に対して“あ、こんなことまで客体化なのか…と、自身の今まで当然としてきた加害性を指摘されるような感覚を覚え”“博士達の話す内容の咀嚼に困っている”と説明しています。

カイト博士達は、社会の中に当たり前のように存在するルッキズム、ある一定の基準の身体を美しいとする偏った美への価値観などを指摘しながら、社会が求める規範的美の価値観から自身を脱却させるためにはどのような意識づくりをしていけばいいのか、わたしたちが今から出来ることを様々提案していました。

他人の目を気にして着飾ることをやめて(脱客体化し)、自分本位で自分らしく生きる生き方を選択するべき、という博士たちが提案するコンセプトは、もちろん「そうだよね」と共感するものの、一方で、綺麗な格好やメイクアップや髪型など、他人から見たインパクトや相手からのフィードバックも含め自己表現やコミュニケーションの一環になっているファッションや表現芸術が全て否定されたような感覚もどこかで感じてしまった自分もいました。それはちょっとポリコレに対して過剰すぎじゃないか?と思う感覚に近かったです。

他人から見られた自分の姿を意識することで、自分が苦しくなってしまう。ここはもちろん理解できるものの、一方で、相手からのフィードバックを期待して、それがあることで自己満足も得られている時だってある。というか、化粧など、しないと社会的生活を送るには不利益を被ることだってある。この矛盾が自分の中でなかなか処理できずにいました。

そんな中、脱コルセット運動を記録したイ·ミンギョン著『脱コルセット:到来した想像』を読んで、自分の中で感じていた偏見や、なぜ自分がどうそれを咀嚼して良いか分からなくなってしまったのか、その理由が分かった気がしました。

それは、ある既存の社会的価値観から自分を脱却させるには、その社会的価値観を壊す過程で、それに反対する周囲からの抵抗に痛みを伴いながら戦う決意が必要なのである、ということでした。

ミンギョン氏の本では、脱コルセット運動に参加した女性達の、その運動に参加する決意に至るまでの動機、実践過程で経験する周囲の人からの反応を受けての心の葛藤、自身に起きた変化などをとても丁寧に聴取しています。

その中で、脱コルセット運動(ツーブロック、ノーメイクなど身なりの変化)を実践するために、「女性らしさ」が求められていた職種を辞めざるを得なかった女性のエピソードが出てきます。仕事を失ってまで、自分の生活を変えてまで、(ファッションやおしゃれなどの)自分の趣味を手放し、それでも守りたいものは何なのか。その葛藤と彼女の意志を読んで、自分が、カイト博士の本を読んでた時に感じた自身に感じる矛盾が、社会から抵抗されるのをとても恐れている自分がいたのだな、と自身の中に内在する社会からどう評価されるかに怯える恐怖心であったことを理解することができました。

規範的女性性に争うために

前回のゆうきさんの記事で、ゆうきさんは、社会的に不利益を受けている側からの「声」が理解されない、真剣に取り合ってもらえない、そんな状況が続いてしまうと、不利益を受ける側には無力さが生まれてしまう、と話していました。

この無力感の中には、社会の「当たり前・常識」に反抗した時の社会や周囲からの抵抗やバッシングを受けた際の個人が圧倒されてしまうくらいの恐怖心や失望感、疎外感、などの萎縮の感覚もあるのではないかと感じます。

脱コルセット運動には、「なぜそこまで極端にルールを課して自身の容姿を変える必要があるのか」という批判も一部の人からは寄せられているそうです。しかし、その極端な容姿とライフスタイルの変化を敢えてするのは、家父長制・女性の客体化が根強い韓国社会において社会的に求められる規範的女性性のイメージをぶち壊すには、これぐらいのことをしなければ誰も気づかない、社会の価値観が変わらないからだ、という強いメッセージが込められているようです。

また、それを敢えて今まで規範的女性性を内在させていた女性達に取り組ませることで、周囲からのリアクションや自身に感じる身体のイメージの変化などを自身の身体を通じた体験·体感として実感させる意図もあるそう。この活動に参加し、内容の主旨に共鳴する女性達は、この経験を通じて、より一層、今までの自分がどれだけ規範的女性性に則って自分の行動を決めていたのか、自分を偽っていたのか、体型や見た目の強迫概念に囚われていたのか、苦痛や不便を我慢していたのか…自分が本当の意味で『人間らしく』生活を送れるように、身体的·精神的に解放されるような感覚を得たと説明しています。

あえてツーブロック、ノーメイク、着心地重視の格好、をこの活動のテンプレートにすることで、仲間を作り、同志を結束させる効果も持っているとか。共通の目的を持った者同士が互いに支え合え理解しあえる関係を作り出すことも、無力感に争う強さを携えるコミュニティ作りに貢献しているそうです。

ちなみに、脱コルセット活動が目指しているのは、男性のような格好を支持することではなく、社会的規範的女性性からの脱却、そのために大きな変化を社会に作るための動き。ツーブロック姿の女性達がいても当たり前の社会が出来たその先に、自分のしたい格好をすることが可能になる社会がある。そのための道づくりの活動である、という理解をわたしは持ちました。

自身の中に存在する社会から投影された客体化に気づくことの必要性

キム·カーダシアンなど女性らしさを全面に美を追求するようなセレブが多いアメリカでは、ハリウッドの作り出した美のイメージがとても強い国だからこそ、それに対抗するような形で、客体化からの脱却やボディイメージの変化を作り出すボディ·ポジティビティやボディニュートラル、ノンバイナリー化、脱有害な男性性などの動きは起きています。

それは昨今のディズニー映画に見られるように、規範のプリンセス像(王子様が来てくれるのを待っているか弱き美しい女性)を積極描写しなくなったことや、セクシーコスチュームがテンプレートだった女性ヒーローたちが男性ヒーローと同じような機能性重視のコスチュームを着るマーベル映画を例に、目にすることが出来るでしょう。実際に、従来の美の描かれ方や客体化の問題点を意識してみると、見るのが苦しくなってくる有名映画やドラマというのは少なくはありません。

でも、今までの社会規範を変えることに対して、どれだけの社会的抵抗が起こるのか…。そして実際に、自身が変化を作る環境に身を置き、社会からの抵抗を経験し、自分がどう客体化された生き方をしているのか、そこに意識を向け、自身の中に存在している内在された客体化に気づく過程を経るというアイデアは、わたし自身ボディイメージのことを語る上で、とても大きな盲点だったように思います。

なので、ミンギョン氏の本から知る『脱コルセット運動』に、わたしは心底脱帽してしまいましたし、たとえ脱コルセット運動にガッツリ参加しないとしても、この情報をいろんな人に読んでもらいたい!!社会から求められる苦しいコルセットを脱いでいくことは出来るんだよ!と伝えたい、そんな気持ちでいっぱいです。

わたしは、ボディイシェイム(身体を恥じる)問題は、個々人の心の葛藤ではなくて、個人の生まれ持った身体に対してネガティブな意識を植え付ける社会に大きな原因があると思っています。そして、その社会の価値観が作り出されている背景には、ジェンダーの問題が隠れている。そんな視点から、今回はこの記事を書いてみました。この記事が、ボディイメージに苦しむ方にとって、自分の問題だけでない、これは、多くの人に共通する共同体全体が取り組んでいくべき問題だ、と一つ新たな視点が加わるきっかけになることを望みます。

バトンタッチ

人間の社会には、ジェンダーを基準としたルールが至る所に存在し、それは特権者と被特権者の力関係の不平等さを前提にデザインされた家父長制度をベースに作り出されている場合も多々あります。そのため、メンタルヘルスがジェンダー問題に影響していないとは考えにくく、それは、この記事でも取り上げた客体化をはじめ多岐の問題にわたります。

ところで、客体化といえば、ジェンダー問題満載のディストピアが描かれたハンドメイズテイル/侍女の物語では、女性がまるで物のように、役割に合わせて服装を与えられるという、象徴的な客体化描写がされていました。実はこの作品、わたしがゆうきさんとこのリレーブログを始めるきっかけになったホットトピック満載な作品です。そこで、次は『ハンドメイズテイル』を軸に、そこに描かれるさまざまなジェンダー問題をゆうきさんと話していきたい!!!とバトンタッチしたいと思います。

筆者:吉澤やすの

参照:
イ・ミンギョン(2022) 脱コルセット:到来した想像 タバブックス
Kite, L. & Kite, L. (2021). More Than a Body: Your body is an instrument, not an ornament. Audiobook: HMH Audio.

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