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フィンセント・ファン・ゴッホ 5

フィンセント・ファン・ゴッホ 1

フィンセント・ファン・ゴッホ 2

フィンセント・ファン・ゴッホ 3

フィンセント・ファン・ゴッホ 4


あとがき

フィンセント・ファン・ゴッホの名前は世界中で広く知られ、芸術家の代名詞として用いられるとともに、「狂人」、「社会不適合者」、「独学の人」、「生前に絵が一枚も売れなかった画家」「弟テオの献身」などのタイトルも常に同時についてまわります。

今回、ゴッホをとりあげた理由には、そのような「狂った画家ゴッホ」の印象をもう一度見返し、一人の人間として懸命に生きたゴッホについて改めて考え直したいという気持ちがありました。それはいわゆる「芸術家=普通じゃない人」というような一般的に流布する紋切り型な芸術家像に対する思い込みを見直したい気持でもありました。

ゴッホの人生を振りかえってみて感じるのはまず、ゴッホは決して「社会不適合者」ではなく、むしろかなり積極的に社会と関わろうとしていた人物でした。彼は高等な教育を受け、16歳で就職してからも社内で優秀な業績を収めていたことがわかっています。また語学の才能に長け、母国語のオランダ語のほかに英語、仏語、独語などを使いこなし、文学作品をはじめとするさまざまな書籍にも目を通すインテリでもありました。最終的になんらかの疾患を患っていたことは事実だとしても、彼が最後までありとあらゆる親しい友人たちに送っていた手紙には、とても狂人が書いたとは思えないような、明晰で愛情にあふれた文章が見てとれます。

ゴッホは芸術大学を卒業したことはなく、28歳から本格的に絵を描き始めたことを考えると、たしかに独学と言えなくもないように思えますが、実際には二つの芸術大学に入学し、または授業を受講し、画家アントン・モーブの元で短期間、いわば師弟に近い関係の中で具体的に油絵や水彩の描き方を学んでいます。

生前にほぼ絵が売れなかったことは事実ですが、数枚の売却記録が残っており、最晩年には美術評論家アルベール・オーリエがゴッホの絵を絶賛した評論を美術誌に寄稿しています。

また弟テオとの関係においても、テオの兄への献身的態度は間違いなく事実だと思われますが、それは決して一方的な従事ではなく、相互的な関係だったと考えられます。お互いが精神的な支えとなっていたことは確かですし、またそれだけでなく、テオの画商という職業での成功も兄フィンセントがいなければ成しえなかったでしょう。

そしてゴッホの画家としての名声(ゴッホ伝説)の確立において、決して忘れてはならないのが、テオの妻ヨーの存在でした。テオはフィンセントが亡くなって、すぐに倒れ、その後半年もせず亡くなっています。兄弟亡き後にすべてのフィンセントの絵を管理し、広報、展示、編集、出版を行ったのはテオの妻ヨーであり、彼女の存在なくしては、ゴッホとその作品の存在は世に残っていなかったと考えられます。

文章中のいくつかの点については、現在では疑問が呈されていることもあります。例えば、ゴッホが切った耳の範囲は研究者によって、耳たぶ程度とする人もいれば、耳全体とする人もいます。また自殺の際の銃口の位置やそもそも他殺だったのでは、という説もあります。そのほかにもいくつか判断のつきづらい点もありますが、いくつかの文献を見比べて、個人的に判断し文章にしました。

ゴッホの名声は間違いなくゴッホが書いたそのおびただしいほどの量の手紙とともに、強度を増し、広がっていきました。しかし今いちどその足跡を丁寧に振り返ってみると、真摯に誠実にただ一生懸命に生きようとしたか弱い一人の人間の姿が見えてきます。晩年に高名な美術評論家から「天才」と名指され、高い評価を得た際、ゴッホは嬉しさよりも不安の方が大きかったと言います。特にその「天才」という代名詞には違和感しかなかったのでしょう。彼は天才や狂人と言うよりは、ただただ誠実な一人の人間でした。そしてだからこそこれほどまでに多くの人の胸を打つ作品を描くことができたのだと思います。

おわり

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