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写真家-Frank Eugeneは絵画的フォトレタッチの創始者だ。

フランク・ユージン(Frank Eugene,1865-1936 )アメリカ・ドイツの写真家であり、最初の絵画的フォトレタッチを行った。
そして、肖像画と写真が近い関係にあった頃、世界最初の大学(王立グラフィック芸術アカデミー/ライプツィヒ)での写真の教授(研究・教育)だ。
また、フォト・セセッション(Photo-Secession)のメンバーだった。
写真のネガを、スクラッチ(ひっ掻く)やペインティング(レタッチ/ブラシストローク)でネガを加工した。それは、絵画と写真のブレンドのようなプリントが作成されるという事だ。(Adobe Photoshopの世界だ)
その大胆さは、写真の純粋主義から異端だが、その独特のタッチは、時間の経緯と共に、見直され賞賛された。
フランク・ユージン以前には、そのような絵画的な意図で手作業のネガを加工する(フォトレタッチ)ロジックは皆無だったのだ。
その位置付けは、フランク・ユージンは写真の語彙に新しい文脈を作ったと言えるかも知れない。

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(c)Frank Eugene/MoMA他

略歴
ニューヨーク市立大学、そして、バイエルン美術アカデミー(ミュンヘン、ドイツ)では、ドローイングとステージデザインを学んでいた。そして、フランク・ユージンは、演劇の肖像画家(俳優や女優の肖像画)としてのキャリアをスタートした。そこで、写真に対する関心は高まったと言われる。(フランク・ユージンは、その少年期である、1880年代から、写真を撮っていたと言われる)
その後、アメリカに帰国、1899年ニューヨークのカメラクラブ(当時、写真の新しい情報を知る上の重要な社交場だ)にて、写真の展示を行う。
その評価は高く、芸術的であり、肖像画家がアメリカで写真を表象するのは初めてだった。
1900年、彼はThe Linked Ring(ファインアートの世界に写真を推進した)に選出され、彼の版画の14枚が、ロンドンの主要な展示会で展示された。(絵画的フォトレタッチ作品)
1901年、エジプト等に撮影に出向いている。
1902年、Photo-Secession創設者の1人となり、その評議会のメンバーとなる。
1904年、彼のグラビアが、Photo-Secessionの機関誌カメラワークに掲載された。
1906年、ドイツに移住する、そこでは、画家と写真家の双方で評価された。
1907年、「Lehr-und Versuchs-anstalt fur Photo graphie und Reproduktions-technik」(写真と複製技術の教育研究機関-ミュンヘン)で絵画写真の講師となる。ここから、フランク・ユージンは、写真に主にすることになる。
彼はオートクローム(リュミエール兄弟のカラー写真プロセス/この当初は、モザイクでの加法混色)の新しいカラープロセス実験(写真化学)している、そして、フランク・ユージンのカラープリント(オートクローム)はニューヨークのアルフレッド・スティーグリッツの291 (art gallery)ギャラリーで展示された。
1913年、王立グラフィック芸術アカデミー(ライプツィヒ)の絵画写真の教授に任命される。それは、創始者が得た、世界最初の写真の教授の椅子だろう。1927年に閉じるまで、ロイヤルアカデミーの写真部門の責任者を務めた。
1915年、米国市民権を放棄し、ドイツの市民となる。
1936年、ミュンヘンで死亡(心不全)。

(追記)Adobe Photoshop ver.1-Eがアメリカで発売されたのは、1990年だった、それから、フォトレタッチ(写真加工)の世界は大幅に変わって行った。ここでそれを申し上げるまでもないがスタンダードな世界だろう。ただ、そこから、100年近く前に、その継承先であるフランク・ユージン(Frank Eugene)は、存在していたと言うことだ。文化というものは、継承され、その先に新しいロジックが発生する。ただ、創始者は、異端児であり、何事もそうだが順風満帆には行かないものだ。現在形の写真周辺の文化を考えると、フランク・ユージンは写真の語彙に新しい文脈を作ったという事だろう。


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