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アンドレ・ブルトンの「ナジャ」を考える

「ナジャ」-アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966/フランスの詩人・文学者・シュルレアリスムの展開)
アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」(1924年)は、オートマティスム(自動記述-自動書記)をシュルレアリスムの重要な要素としていた。
また、「ナジャ」(NADJA-1928年):現実の女性、ナジャとの、その現実のすぐ背後にある超現実の存在を実感する散文だ。

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・そのナジャを考えてみる
「ナジャ」(NADJA):ナジャとの出会いで、その現実の背後にある「超現実の存在」を実感する体験を語った、ドキュメント形式の散文作品であり、いわゆる私小説だ。

(概略)第1部として、「私はだれ?」とい問いかけで始まり、偶然の出会いや偶然の一致の事例を列挙されていく、
そして、第2部では、パリの路上で偶然知り合った「ナジャ」との交際で構成される。
そこには、「誰と付き合っているのかを見れば、その人がどんな人か分かる」という内容の諺を踏まえているのだろう。その「ナジャ」は、実際に10日以上にわたってコミュニケーションした若い女性(ナジャ:レオナ・カミーユ・ギスレーヌ・D)がベースにあり、自動記述の手法にしたがって書いた私小説だ。(1928年刊)

もう少し、具体的に見てみると・・・(かなが多く書かれた当時の現代思想社-稲田三吉訳から)
第1部は、序文として、「私は誰か?」と言う自身への問いかけから始める。
以下、「ナジャ」現代思想社-稲田三吉訳

私は、何者だろうか。仮に「この問いに応えるために『お前が誰とつきあっているか、言ってみよ。そうすれば、お前が何者であるか言いあてて見せよう。』と言う」全ては、結局、私が”誰とつきあっているかを知りさえすればいい”と言うことになるのではないだろうか。・・・・・
その「つきあっている」と言う意味の他に、幽霊などが、「つきまどう」、「のりうつる」の意味ももつ。
・・・・これは、自分という使者と宿命の責任だろう。

そこには、実際に出会った人物ナジャ、そこで起こった出来事,発せられた言葉等々を、克明に記録するというこの新しいロジックの「小説」は発表当初より賛辞され,35年後の1962年,「著者ブルトンによる全面改訂版」として再度、世に送り出された。

第2部では、その現実の「ナジャ」が登場して、今起きている現実の背後にある超現実の存在を実感する体験としての、私小説だ。

その第2部の「ナジャ」導入部から
(原文通り-現代思想社-稲田三吉訳/1962年刊)
反対方向から、やってくる1人の女を見かけた。
ひどく貧しい身なりをした女だったが、彼女のほうでも、さきほどから、私を見かけたらしく、じっとこちらに目を注いでいた。
ひどく、きゃしゃなからだつきで、歩きながら、やっと身をささえている感じだった。
微かな微笑が、顔の上を走っているようであった。
おかしな化粧のしかたをしていた。
・・・・
眼の縁だけが
ブロンドの髪の女にしては、黒すぎる・・
・・・・
「事情もよく心得ている」とでもいったふうなほほえみだった。
それから、「いまお金のことで、ひどく苦労しているといくぶん強調するよう」に言った。
そして、私たちは、北停留所に近いカフェのテラスに腰をおろした。
・・・・
そのようなくだりで、第2部であるナジャははじまる。

この2部では、話のスリリングな展開に引きずられる。ところが「ナジャ」のある意味、社会的な死の後に、また同じ思いにとらわれる。
いずれにしても、「狂気と芸術」は、隣り合わせなのだ。
そこを考える時、いくつかのデッサンを残しただけで精神病院(ヴォークリューズ/フランス)へ入院させたれた、ナジャへの惜別の念もあったのだろう。
(註)ナジャのデッサン:ヘッダーについて、イメージがナジャの心に浮かぶと切りぬいた紙に描く、その一方を動かせば、頭のほうの傾斜を変化させることができる。(動くコラージュかも知れない、心的像-イメージと文化-イメージの分類

また、そこには、謎の女ナジャとの遭遇にとどまらず、ブルトンが偶然パリで出遭った「生の現実=超現実」の体験が、淡々とさりげなく、そして実に、巧みに語られているのだ。
「私はどんな人にせよ、何か書物のようなものを準備するだけの暇のある人が羨ましい。(羨ましいというのは言い方だが)」アンドレ・ブルトン(図44.ブルトンの肖像写真)

この全面改訂版の書籍では、当時(1960年代)としては、貴重な写真が挿入されている。
それは、ドキュメントとしての価値を付与するためかも知れないし、「美は痙攣的なもの」(美は乱調)を写し撮れる写真芸術へのオマージュかも知れない。
結果的に「物語+写真」という新しい作品『ナジャ』が作られることになった。これらの写真は、現在の我々も理屈なく見入ってしまう謎を秘めていることは確かだ。それは、この写真が本文と呼応しあい、ある種の特別な閃光を放っているのかも知れない。

ブルトンの「溶ける魚」の後、1928年刊の私小説だ。

以下、Amazon「溶ける魚」

(註)オートマティスム(自動記述-自動書記)は、あらかじめ何も予定・予期せず、先入観を捨て去り文章を書き付ける文学の表現方法の一つで、シュルレアリスム宣言の中に示されているシュルレアリスムの定義に即したものだ。
繰り返すが、「磁場」は、アンドレ・ブルトンは、フィリップ・スーポー(Philippe Soupault,1897-1990/仏-詩人・小説家)との共著による、自動記述を重視した方法によった文章を集成した、最初の「テクスト・シュルレアリスト」と言えるかも知れない。

アンドレ・ブルトンとシュルレアリスムとアール・ブリュット(アウトサイダーアート)とその周辺

アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」とは(アール・ブリュット前夜)

アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」を考える

(追記)そして、ブルトンのオートマティスムから、シュルレアリスムの流れ、そして、その流れは、ジャン・デュビュッフェに至り、アールブリュットの語源とロジックの構成に至る。(アウトサイダーアート)

どこかの時点で、ナジャの描いたデッサンを集め、再考するのもいいかも知れない。と、ふと、今、感じた。


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