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三谷十糸子-昭和の美人画

三谷十糸子(みたにとしこ、1904 - 1992)日本画家。
昭和の美人画を独特の世界観で描いている、風景、静物画の世界も魅力的だ。また、教育者としても著名な人物だ。
当初は、和服姿の澄んだ色調で少女等を描き、そして、昭和の中頃(1950年)からは、洋装の女性等も描き、女性画家ならではの筆致(ひっち)や色彩で、詩的な情緒を込められた表象だ。そして、上村松園の影響下にあった画家で有り、晩年に向けて、独特の世界を見出している。

略歴(参照:京都国立近代美術館-MoMAK)
1904年(明治37年)、兵庫県に生まれ。(現高砂市)医師の家庭だった。
1925年(大正14年)、女子美術専門学校(現女子美術大学)を卒業。その後、京都に移り、西山翠嶂(にしやま すいしょう-日本画/文化勲章)の青甲社に入塾した。
1926年(昭和元年)、第1回聖徳太子奉讃美術展「猫と少女」入選。東京府美術館(現東京都美術館)
1927年(昭和2年)、松崎道麿と結婚(入婿)。
1928年(昭和3年)、第9回帝展(日展)「少女」入選。
1932年(昭和7年)、13回帝展で「女」が特選受賞、この辺りから、以前の暗い色調から、鮮やかに澄んだ色調へ変わった。
1933年(昭和8年)、14回帝展でも「朝」が特選をなし、連続特選受賞。
1936年(昭和11年)、15回帝展出品作の「夕」(政府買い上げ)が、シドニー国際美術展覧会(オーストラリア)選出された。
1937年(昭和12年)、三谷も含む関西の女流日本画家10名により「春泥会」が結成された。
1941年(昭和16年)、37歳だった、この年の秋 上村松園と中国慰問並びにリサーチの旅に出かけた。(時は、戦時中だ)
1950年(昭和25年)、「日本画の技法」美術出版社。
1951年(昭和26年)、47歳時に東京へ転居する、そして、
1952年(昭和27年)、母校女子美術大学で日本画科教授となる。
1958年(昭和33年)、日展会員(日本最大の総合美術展覧会)となる。
1962年(昭和37年)、58歳時、東京日本橋高島屋・京都高島屋にて第1回個展を開催。
1964年(昭和39年)、60歳時、7回新日展で「若人の朝」が文部大臣賞を受賞。
1969年(昭和44年)、65歳時には、日本芸術院賞受賞。
1971年(昭和46年)、女子美術大学学長、女子美術短期大学学長就任、-1975年(昭和50年)に至る。
1977年(昭和52年)、勲三等瑞宝章受章、73歳だった。
1980年(昭和55年)、日展参事就任。「巨匠展シリーズⅣ 戦後の日本画展」(神奈川県立近代美術館)出品
1992年(平成4年)、病(じん不全)により死去。(東京都杉並区)
同年、兵庫県立美術館にて 「三谷十糸子展―ひとすじの路―」展開催。

朝

Fig.朝

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猫と娘

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山家の雨 (1940)国立美術館

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(c)三谷十糸子 / 国立博物館蔵他

(追記)私の記事は、当初はランダムにアップしておりましたが、続けての連続投稿は、今日で298回になりました、読者さまのおかげです。300回までは、つづけたいと存じております。

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