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映画「ある機関助士」レビュー、職場と人間

ある機関助士(監督-土本典昭 1963 /企画-日本国有鉄道/製作-岩波映画)

JRが、国鉄時代の広報映画であり、機関士と機関助士の勤務から、乗組員のミッションの重要性と職場環境の絆を描いている。
映画のシーンは、1962年当時、まだ、電化されていない常磐線取手以北である。
ある日、中島機関士と小沼機関助士は、C62(国内最大級のSL)が牽引する急行「みちのく」に乗務していた。この日は朝8時に職場となる尾久機関区に出勤し、上野 - 水戸間を急行「みちのく」で往復運転して機関車を尾久の車庫にしまい、夜20時頃に退勤する日勤乗務である。
午前中の下り急行「みちのく」青森行き11列車はダイヤ通り正確に走って定時に水戸に到着し、2人は夕方まで機関区内で休息した。休憩も大切な国鉄スタッフの仕事だ。
しかし、水戸17時27発の上り急行「みちのく」上野行き12列車が水戸に3分遅れの状態で着いた。取手から上野までの電車区間(常磐快速線区間)は、夕方の帰宅ラッシュの過密ダイヤなる為、遅れが戻せない、取手までに列車の遅れを回復しなければならない。
水戸 - 上野間での最高速度は徐行区間を除いて95km/hまであったという、信号機は150程度、踏切も300程度で、ミスの許されない緊迫・激務の1時間40分という時間だ。機関士と連携して、機関助士が石炭をくべるのは想像を絶する大変な作業だ。
そして、遅れを取り戻し、上野構内での引き継ぎは、「定時到着、異常ありません」の一言だ。この当たり前が、何とも、報われない努力だがこれが当時の国鉄動力車の乗組員の現状であり誇りでもあった。

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ここで、大きなテーマの展開がなされる、
(1)2人の息の合ったコンビネーションで少しずつ遅れを取り戻す。
遅れを回復して、機関士がタバコに火をつけ、そのマッチを機関助士に戻し、会釈と視線を送る。
さりげない、この絆は、それは、当時、「国鉄一家」と呼ばれた姿だろう。
そこにあるものは、今は、どの社会でも希薄になった職場での絆だ。
(2)もう1つの大きなテーマは、回想シーンで、機関助士の鉄道研修所における3ヶ月半の訓練の思い出は、大きなこの映画のイメージだ。
事故を想定して、発煙筒を持って線路を走る訓練のシーンだ。そこで、撮影時に思いもよらないことが起きた、側で見ていた子供が、真似をして走り出すのだ。カメラは、そこへも振られた。そのシーンはなんとも滑稽で、そして、その暖かみのある笑は、後の過酷な国鉄の動力車の勤務体験へとシフトして行く。そして、蒸気機関車の乗組員は激務だった。
当時の定年は*55歳であった。一般社会でもそうであったが、ただ、このSLの機関士の年齢には、*多様な課題があった。
随所にある乗組員のシーンは、駅構内での引き継ぎの様子、常務テスト、休憩時間に煤まみれの身体を洗うシーン、研修等々、当時の過酷な勤務体系の中で、安全で正確な国鉄サービス状況として広報されている。
この映画は、SLから、電気機関車・電車・気動車(ディーゼル)移行する時期の過酷な乗務を描いたドキュメンタリー作品である。1970年代後半、国鉄内部にストライキが多発した。その時代に、国鉄本社と対峙した動力車労働組合員(動労)の組合員の間でもこの映画は賞賛されていた。

   (c)JR東日本 / 岩波映画


(註)*55歳定年:後日、SLの乗務員でその年齢まで健康を保つことは至難の技だと、当時の動力車労働組合員(動労)の方に、伺ったことがある。「それは、例えば、真冬の北海道で、むき出しに近いSLの機関室内で機関助手は、ほぼランニングシャツ1枚で、石炭をまんべんなく、くべる訳だから・・」70年代の後半、旭川の蒸気機関車の機関庫での会話だ。




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