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軽やかな光明 -バッハのピアノ演奏を巡って


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
バッハの音楽の面白さの一つは、驚くほど解釈が多様だということでしょう。
 
クラシックの中でも録音が多いのは、作品自体の多さも勿論ありますが、解釈することが面白く、様々な演奏家に、自分の解釈を残したいという意欲を涌かせるものだということもあると思います。
 
今日は、そんなバッハの中でも、鍵盤での作品について語りたいと思います。




バッハの鍵盤演奏作品で、一番名高いのは、何といっても、グレン・グールドではないでしょうか。
 
彼が1956年に発表した『ゴルトベルク協奏曲』は、衝撃をもって迎えられました。



バッハ晩年の、穏やかで秘教的な部分もある老成した曲を、快速なテンポで、一気に引き倒して、青春の爽やかな息吹が香る曲に一変させてしまった、この名盤。
 
50年以上経った今聞いても、その凛とした美しさ、込められた熱気の力に心打たれる作品です。






グールドの演奏が今でも素晴らしいと思えるのは、それが徹底してモダンだったからのように思えます。
 
磯山雅氏は、『J・S・バッハ』(講談社現代新書)の中で、バッハの演奏においては、全ての音符を均一に演奏したのではだめだと書いています。それは、バロック時代の発想にはふさわしくない、と。


バッハの楽譜には、幹になる音と副次的な音があり、緊張した不協和な音と安らいだ協和の音とが対立している。

また、表記より長めになって生きる音と短く跳ねるべき音とがあり、楽器上で良く響く音と、曇るがゆえに味がある音とがある。それらが相互に意味深く使われ、緊密な複合体をなしているのが、バッハの音楽なのである。

こうした「音の差異」を的確に表現するには、正しいアクセントづけと細部表現のメリハリが必須である。「均一」はそれを無視することに他ならない。


この「メリハリのついたアクセント付け」を、バッハの時代の楽器のチェンバロにおいて行ったのが、グスタフ・レオンハルトを始めとする、古楽器の演奏者たちでした。



その結果、こんなにもバッハは生き生きとしていたのだ、と多くの人は再認識することになります。
 
そして、グールドは、自分独自の解釈によって、モダンピアノを使ってこの「メリハリ」をつけたからこそ、斬新な演奏になったのでしょう。
 
そこには同時代のモダンジャズ、例えばセロニアス・モンクやバド・パウエルのような、変わったリズムとハーモニー感覚も、どこか漂っているように思えます。
 
グールドとレオンハルトとモダンジャズ。

おそらく、お互いそれ程影響は受けてはいないでしょうが、軽やかさも漂う、スイングする「不均一な美学」ということでは、一致しています。それが、モダンということなのでしょう。






グールド以降のバッハの鍵盤奏者は、否が応でも、彼の名盤を意識せざるを得ないように思えます。
 
それ以前の、威厳に満ちているか、あるいは感傷的で思い入れたっぷりに弾くバッハではなく、どこか軽やかなバッハとして。
 
ただ個人的には、では新しい全員がモダンかというと、そうでもないように聴こえてくるのが、興味深いです。
 
何というか、キラキラしすぎていて、これはバッハなのだろうか、この演奏の聴きどころは何だろう、と思うような演奏も結構多いように思えます。




つまり、「スイングする」というのは、表面的に「グールドっぽく」弾いても、到達できない。

磯山氏のいうように、どこを不協和音にして「聞かせないか」が、大事になるのであって、この、「音を捨てる」ような発想に到達できる人が、なかなかいないからなのではないかと思います。
 
全てを軽やかに、明るく弾くことは、全てを重く弾くことと、実は大差ない。

これがショパンなら、聴かせどころがちゃんと分かるように書かれているので、ある程度テクニックがあれば、自然とメリハリがつくのでしょう。

しかし、バッハのように、一見全ての旋律が等価に並んで複雑に組合わさっている場合、「楽譜に書かれているまま」弾くだけだと、音が飽和して、膨満感のある演奏になりがちな気がするのです。




そんなバッハのピアノ演奏の中で、私が一番好きなのは、ヴィルヘルム・ケンプの演奏かもしれません。



ケンプは、グールドより一世代前で、あまりテクニックがない、素朴なオールドスクールのピアニストと言われがちです。
 
それは間違っていません。しかし、70年代辺りのケンプは、右手の旋律は抑え気味に、左手の低音部が、強調しないけれども柔らかく全体を包み込むような広がりがあることで、一定のくすんだトーンの中から旋律が浮かび上がるような演奏をしています。
 
特にゴルトベルク協奏曲やイギリス組曲のような、バッハの鍵盤作品の場合だと、落ち着いたテンポと絡み合った旋律の中から、主旋律が自然とほのかに輝き、全体が薄い光と影でくるまれるような感触が生まれます。
 
何も特別なことはしていないのに、軽やかで、自然にメリハリと陰影がつく。グールドやレオンハルトとはまた別の方法で「不均一な美しさ」に到達するのです。





それは、ケンプが元々作曲家だったということ、それゆえ、作品のどこを歌として聴かせるかという勘所を掴んでいたことが大きいように思えます。

ケンプは、自分でバッハの小品を編曲した曲集も出しています。そういえば、グールドも自分で作曲したこともありました。
 
バッハの曲は、ただ弾くのではなく、自分の頭を使って曲を再構成する時に、生き生きと輝く音楽なのかもしれません。




そんな再構成された「スイングする」バッハ演奏で最近の個人的な収穫は、ECMレーベルから出た、フレッド・トーマスの『スリー・オア・ワン』です。



 
バッハの様々な曲の旋律を、ピアノソロや弦楽器を交えたトリオ形式に編曲した作品集。
 
全編が穏やかに、かつしなやかにスイングし、ECM特有の澄んだ残響の多い録音により、柔らかい陽光を浴びた白いドレスが静かに翻っているような、美しい演奏になっています。
 
その柔らかさ、軽やかな光は、バッハの音楽に元々あったもののように感じられます。






バッハの曲は、ソリスト用でも、対位法によって複雑に組みあがった、オーケストラのような広がりを持った曲です。
 
良いオーケストラは、ただ自分のパートを弾くのではなく、曲全体でどこが重要なのかを把握して、そこを輝かせるような演奏をします。全員が考えて弾くからこそ、曲が輝くのです。




それは、私たちの人生のようなものかもしれません。
 
何も考えずに、ずっと苦しく、あるいはずっと楽しくしているだけでは、単調で退屈になってしまいます。
 
複雑な人生には、輝かしい瞬間も、暗い時もあることをしっかり認識して、どこが重要な「時」なのかを自分の頭で考えて歩むこと。
 
そうした時に、ケンプやレオンハルト、グールドのバッハの演奏のように、軽やかでほのかな光に彩られる人生になるかもしれない。彼らの演奏を聴いていると、そんな想いも浮かんでくるのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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