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note Life【10】

〜天邪鬼〜

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noteは7周年

 2020年は世界的な波乱と混乱の年となり、その混迷は2021年になっても未だ続いています。この混迷の時代の片隅で何を想い、考え、創造していけばいいのでしょう。

 noteを始める理由も続ける理由も人それぞれ違います。

 ボクの場合はnoteという場所が創作活動の拠点であり、職場にならないだろうかという想いがありました。そのために必要なのは自分自身の向上。技術も表現力もまだまだ未熟です。

 7年が過ぎてそれは実現したでしょうか。
 残念ながら答えは否。

変化

 時が経てば時代や身の回りに変化があります。そして自分自身の変化。
 時折、やっと入口に立てたかも知れないと手応えを感じることはありますが、そんな手応えはまもなく霧散してしまいます。

 昨年、低山の稜線を何度か登りました。ここがピークかと思った先にまた登りがあったり、時として下りになったりする所はよく似ているような気がします。山の場合はその度に新たな光景が眼前に現れ、時として山の幸をもたらされるのを不思議に感じたりしました。

 人生もまた稜線をたどるが如く、登ったり下ったりしながら続いています。時としてささやかなご褒美のようなものがもたらされることもあります。その価値はそこにたどり着くまでの苦労が決めるのかもしれません。

 年齢のせいにしたくはないのですが、想像力とか妄想力が枯れてきたような気がします。情熱と集中力も少しずつ散漫になっているようです。アクセルを踏んでもちっとも前に進まないような感覚。それでもペンを持ったり気分転換にカメラを携えて出かけたりしている感じです。
 将来、空想力が乏しくなることを想定して感じることや思いついたアイディアなどメモするようにしていたのですが、時が経つと何のことやら自分でもわからなくなる始末。メモそのものがイメージする力に支えられているということに気がついていなかったのです。

 暗中模索、五里霧中は当たり前のことだったはずなのに一体どこへ向かおうとしていたのかすらわからなくなりかけています。ともすれば生きる意味さえ見失ってしまったようです。
 ただ、創作活動にちゃんと向き合ってきたという自負だけに支えられているのです。

 どうやらnoteを始めた頃にイメージしていた7年先とはかけ離れているようです。
 良くも悪くも変わっていない。
 その間にも時は流れ去り、ふと気がつくと浦島太郎になったのような感覚に陥ります。
 振り返った所で他に選択肢はなかったようにも思えます。人生は自分で選んでいるようでいて選ばされていると思う局面も少なくないのです。

いつかきっと…

「いつか」とはいつなんだろうと時々考えます。
 将来に夢を託し、未来を思い描く。その空想力が今を生きる原動力になっていたはず。時を経て、現実を目の当たりにしてまだ先へ進むのか、進めるのか。

 山歩きをしていて登りの先にまた登りがあったりするとだんだん気持ちが萎えてきます。
 あの樹のところまで行ったらもうやめよう、もうここまでにしよう…そんな心境になった時、助けられたのは何と天邪鬼でした。

 気持ちはもう諦めているのに何かが背中を押す。身体が動く。昨年は山の稜線を辿りながらそんな不思議な感覚を味わいました。その時ふと、昔その地域に住んでいたという天邪鬼の存在が思い浮かんだのです。

「もうダメだ。もうイヤだ。もうお終いにしよう。」

 そんな気持ちになるのは当たり前。けれど、そんな時こそ天邪鬼が味方になってくれるのかも知れません。

「まぁまぁ、もうちょっと行ってみようよ。ほら加勢するよ。」

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もくじ| △ 随想

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… 頼風 …


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