見出し画像

「ファーザー」感想その1。ラストシーンの考察(ネタバレあり)

「ファーザー」

アカデミー賞受賞した映画「ファーザー」。アンソニーホプキンス主演。言わずもがな、人類史上奇跡的な俳優。羊たちの沈黙、ハンニバルは何度見たことか。あと「日の名残」ね。
助演はオリヴィア・コールマン。海外ドラマ「クラウン」ではエリザベス女王役で、非常に抑えた演技で心を鷲掴みにされた。

この映画は、予告編に騙されてはいけない。表層的な印象は、認知症になりつつある父親と娘の、愛と確執の物語。
しかし、ものの10分でそんなイメージは壊れてしまう。

妻に、「久しぶりに映画を観たって感じだったー」と言われて、感動ものかと思って観てみたけど、どんどん混乱してきた。

この映画は、出来るだけ先入観なく観たほうがよい。これでも書き過ぎてるくらいだ。
流石にアカデミー賞だから、すでに観ている人も多いかもしれない。まぁ、小生の記事を見ている数名?笑のためにも、ネタバレをしないように、まずは心がけてみた。

とにかく、ものすごいショックを受けた、ということを伝えたい。そして、感動も。
その感動の質は、また後で記する。


ーーーー
ここから、ネタバレ。
ーーーー


●ラストシーンについて。
ストーリーのことや、時系列のこと、あらゆる考察は、宇多丸師匠のムービーウォッチングとか、おすぎさんとか、いろんな方々がわかりやすく解説してるので、そちらを見たら良いと思う。

まず、僕がなによりも、自分のためにここに記録したいのは。

「あのラストシーン、ラストカットを観て、改めて自分がやるべき絵画表現の道が見えた」ということだ。

壮絶なラストシーンだった。
もう悲しくて悲しくて、嗚咽しながら堪えていた。
心の奥底のものを、吐き出すかの様に。人生の、どうしようもない宿命。そして悲しさ。

しかしラストカットの、風に揺れる木々と葉っぱたち。(葉っぱと腕時計、フラット(部屋)、太陽は、この物語の重要なアイテムとなっている)。
そっと寄り添う介護人は、母親のよう。

●ラストシーン1巡目。「父親のこと」
脳梗塞から認知症になって、一人ホームで亡くなった父親のことを思い出す。アンソニーの存在そのものが、父親の立ち振る舞いとリンクする。
そして、父にとって、最後の日までどの様に過ごしてきたのだろうと考えると、嗚咽が止まらなくなった。

ーーー
●ラストシーン2巡目。「命の無常と自然の摂理」
優しく抱擁する母親の様な介護人のあたたかさ。慈愛。神の存在。
アンソニーにとって、「腕時計」は生きている「最後」の証であり、人生=記憶=アイデンティティ。
それを失えば、「旅に出る準備」=死の旅ができないと言う。そして、未だに準備ができているかどうか不安だと。
あれだけ固執したフラットも、すでにわからない。そのうちに、腕時計もわからなくなるだろう。

そして、最後のラストカットの木々。この意味を深く考える。
アンソニーの命は、もはや葉っぱも、風も、枝も無くなっていく。しかし、外には太陽が燦々と輝き、暖かい風が吹いて、木々がなびいていた。これを無常の世界と捉えた。 
当たり前の大自然の摂理。何億年も繰り返される、絶対的な摂理。

人は、生まれて、老いて、死ぬ。それでも命は巡り、人生をつなぐ。(それは希望も絶望も)。
命は生まれて死ぬ。当たり前のことの、なんと、切なく、悲しく、そして美しいんだろう。

壊れゆく意識の中で、それでも包み込む優しさと、光と風がある。
ーー
●ラストシーン3巡目。「介護人のセリフ」

介護人は子供の様に泣きじゃくるアンソニーに優しく語りかける。
「さぁ、外に出ましょう。太陽が出ていて、とても気持ち良いお天気よ。お天気は短いの」

太陽、と言うキーワードは、娘アンの恋人ポールも言っていた。「僕たちの太陽を奪うな!」。
太陽というのは、人生を謳歌する象徴なのではないだろうか。どんな人だって、平等に太陽のひとときはやってくる。
しかし、「その時は短い」のだ。だから、精一杯今を謳歌して生きよう・・というような。
その時は短い・・ぞっとするセリフだ。
僕は、今降り注ぐ太陽に目を向けているのか?下ばかり見てないか?ご時世ご時世と不安ばかりで。
(後日記載。僕にとっての太陽・子育てなど。)
ーーー
●ラストシーン4巡目。「今、観客が見ている木々」

そうしてまた見ていくうちに、ラストの風に揺らぐ木々を見ている僕らは、まさに太陽の降り注ぐ世界に生きている、という気がしてきた。
エンディングで、この映画は、観客を励ましている、希望を与えているような・・。
全てを失いつつある老人の横で、あなたはこの風景を見れているのだ、と。

ーーー
ラストシーン5巡目「それでも平等に」。

何回も見ないとわからない頭の悪さを嘆いている(笑)。

ふと、こんなことに気づく。
「観客にも、死にゆく老人にも、新しい生活を送るアンやポールにも、介護人にも、外で遊ぶ子供達にも、虐待を示唆している医者の男性にも・・。同じく太陽は降り注いでいるのだ、と。全く同じく、太陽は降り注いでいる。
しかし、妹のルーシーや、アンソニーの妻、母のような故人には、降り注がれない。いや、その故人達が、命を全うして太陽となり、木々となり、今を生きる我々に光を降り注いでくれているのか・・。

ここまで考察すると深読みなんだろうか。でも、僕の中には確信がある。
それがまさに、僕が生涯をかけて表現したい絵画テーマそのものだから。

あの映画から、とてつもない絶望も感じるだろう。家族関係にしても、父と娘の「家族ならでは」の深い傷がひしひしと伝わるだろう。

しかし、後日記録しようと思っているが、アンは、不幸だったのだろうか。自分の人生を台無しににして、ポールとも喧嘩しながら(このポールって男が、こんちきしょう)。
確かに、確かに。親子の愛はそこにあった。
最初のシーンと最後のシーン。そっとアンの顔に手を添えるアンソニー。まるで赤ちゃんの頃からそうしてきたかのような、優しい仕草。あれだけ目を見開いて、悲しみと怒りと理不尽さと不憫さを表していた、アンの大きな目が、もはや小さな幼児に見えるのだから。

ルーシーを失った悲しみは、父と長女にとってはどうしようもない絶望。それを二人で共有することの、愛。
アンソニーは悲しくて忘れてしまい、事あるごとにアンと比較する。実際面倒を見ているアンにしては、たまったものじゃない。忘れられない記憶として、壊れゆく父を支え、そして決意を持ってホームに預ける。
この人間としての強さ。

家族って、どんなに歪み合い、傷つけ合ったって、切れることのない深い愛があるのだ。
「愛したい」「愛されたい」と。

そんなことを思いながら、こんなに長い長文になってしまったけれど、考えをまとめることができてよかったと思っている。

●余談
認知症は、生きてきたいろんなしがらみや感情から解放されて、自由になって死を迎える準備だと聞いたことがある。
父も、脳障害からの失語症で、リハビリの時はいつもイライラしていた。まるでアンソニーのように、壊れていく自分が許せなかったんだろう。
しかしどんどん症状が進み、意識が朦朧としていくなかで、僕自身はそれを「悲しいことだ」とは思わなかった、ような気がする。

60歳で他界した母は、危篤になる前までなんとかしゃべれて、口頭で遺言を残した。そして、懸命に顔を近づけて聞く僕ら兄弟に「息が臭いわよ」とも言ってのけた。苦笑。
そのあと、兄妹と必死で歯を磨いたっけ。

それはそれで幸運なことかもしれないが、父の最後の姿を見ていると、「人生を戦い、懸命に生きてきた人が行き着く場所」とも考えられた。
本当にお疲れ様でした、と思えた。それは臨終の時も変わらない。そして、今は良い思い出が残っている。

だからこそ、介護職の方々には頭が飾るし、人生の役割として誇りを持ってお世話をしている姿は、まさに素晴らしい魂の現れなのだろう・・。

しかし現実的には給料が安く、重労働、働き手もいない、残酷なニュースも相次ぐ「日本」という国のあり方も、ひどく残酷なものだ。
早くワク○を打つことだけが、高齢者へのケアなのだろうか。
働く方々への心のケアや生活のケアはどうなんだろうか。疲弊しきってはいないか。

父のホームで勤務するスタッフの方々はとても良い方ばかりで、僕が毎日送った絵手紙を、ベットの隣で読んでくださっていたようだ。
そして、一緒に泣いてくれた。
泣いてくれたのだ。

そして。
同じく認知症の親を見てきた友人達のことを思い浮かべる。彼女ら(全員なぜか女性だ)の葛藤は、それはもう凄まじいものだった。
罪悪感。
例え暴れ回られても。暴言吐かれても。
うちの祖母がそうだった。最後まで老老介護でみたいと言っていたが、先に癌で倒れ、あっという間に77歳で他界した。
アンソニーと同じように、曽祖母には、娘の死を言えるわけがなかった。

家族にとって、それは自身の人生を全て注ぎ込むくらいのものだ。それが何年も何年も続く。自宅でみる。ホームに預ける。いろんな人生があるなかでも、僕は、この介護を全うしたご家族こそ、悟りの境地のような人生だと思う。

その葛藤全てが、その人の魂の輝きそのものだから。

ーー
ああ、余談が長い!!!

続く。

よろしければサポートお願いいいたします。こちらのサポートは、画家としての活動や創作の源として活用させていただきます。応援よろしくお願い致します。