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病気とかワクチンとか医療とか薬とか…。体のこと、健康、人生すべて、見直すために。


「こんな大量の薬を飲むの?」

僕は母に処方された薬の量を見て驚いた。

「そうよ。飲まないと治らないから」

母はそう言った。昔から、薬大好き人間で、僕も幼い頃から薬漬けに育てられた。

薬がないと治らない?


とにかく幼い頃から僕は母親の方針に従い、鼻水が出たら鼻炎薬。咳が出たら咳止め。かゆいと痒み止め。お腹が痛かったら胃腸薬…。

そして謎のルールがあり、37度以上の体温はバファリンを飲み、38度以上あれば座薬を差さなければならなかった。

幼かった僕には断るどころか選択する権利などなく、「薬は服用しなければとならない」命題だった。母の頭の中の辞書には「自然治癒力」という言語はない、もしくは意味をなしてないものだったらしい。

物心ついた時から「自家中毒」と呼ばれる症状が多くて、とにかくよく嘔吐する子供だった。吐き気がひどい状態なので、薬はまずいし気持ち悪いので、案の定飲んだ後に嘔吐する。

しかし、嘔吐すると叱られるのだ。

「せっかくの薬が!」

そして、また少し落ち着いたら薬を飲ませられる。何がなんでも、薬は飲まねばならないものだった。

薬には必ず「抗生剤」が入っていたのをよく覚えている。

「風邪は抗生剤飲まないとならないのよ!」

母はそう言ってた。当時は「風邪の時には抗生剤」が主流だったが、今はほとんど処方されない。なぜか? 意味ないからだ。風邪は「ウイルス」で引き起こされるのに、抗生剤は「菌」を殺すもので、ウイルスにはまったく意味がないと分かった。ただただ腸内の善玉菌も殺すだけだ。

当時の医者の多くが抗生剤信仰にどっぷり浸かっていた時代だった。

しかし、子供の僕にそんな医学的知識があるはずもなく、僕は一年365日中、大袈裟ではなく300日以上はなんらかの薬品を飲んで育った。

子供の頃から毎年、風邪でしょっちゅう休んだし、2週間くらい休むなんてこともあった。これは、僕が虚弱体質だったのか?薬品や食生活で弱くなったのか?多分だけど、もちろん生まれつきの弱さもあれど、主な原因は後者だと僕は思っている。

現に小学校高学年から、中学生に上がる頃くらいから、次第に寝込むことが減るのだが、実は母の言うことを聞かなくなり、与えられた薬を「飲んだフリ」をして捨てるようになっていたのだ。自分でもさすがにもう、飲まない方が良くね?と感じていた。

母は例えば病院から10日間分薬が処方されたとする。しかし、3日で症状が治ったとしても、

「病院の薬は全部飲み切らないとダメ!」

という人だった。「治りかけが一番危ない」と言い、だから症状がなくなり、元気になっても、ずっと薬を飲まさせられたのだ。

だからある時から、飲んだふりをして、うまくゴミ袋の奥に押し込んでいた。

とにかく僕は、そんな風に育ったのだ。

インディアンのことわざ に、こんな格言がある。

『父が無知だと貧しくなり、母が無知だと子供が病気になる』

もちろん、有識の賢人賢婦でも、困窮したり、病はあるだろうから一概には言えない。ただ、そんな諺があるのだ。

それ、なんの薬なの?


母は僕が中学生になってから体調を悪くすることが多くなり、いつも病院に通って、大量の薬を処方してもらっていた。その量に、薬慣れしている僕でも流石に驚いた。

「検査して、一体何の病気だったの?」

母に尋ねると、

「それが、お医者さんもわからないのよ。だから、精神的なものかもしれないって」

そう答える。

「え?病気の原因がわからないのに、なんで薬がこんなに?」

さすがの僕もそう思った。

熱が出たら熱冷ましや、痛い時に痛み止めはわかる。しかし、原因がわからないものに対して、大量の薬が処方されるのはどういうことだろう? 何に対しての薬なのだろう?

「お母さん、この薬、ひとつずつ何の薬かわかってるの?」

母にそう尋ねたが、

「えーっと、これは気持ちを落ち着かせる薬で、これは胃の負担を軽減し、これは血行を良く‥、あれ? なんだっけ? さあ、よくわからないわ。お母さんはお医者さんじゃないんだから!」

母はその後、どんどん病状を悪化させ、入院し、命の危険も2回ほどあった。

そこからも母の薬の量は劇的に増え続けた。母自身、何で飲んでいるのか、それが効いているのか、何の薬なのか、あまり理解していなかった。

僕が中学生の頃から、約30年間。病状は一度たりとも後退することなく、前に進み続けた。手足の麻痺、排便、排尿困難、失明。

その間も一度も医師の処置や処方される薬に疑問を抱くことなく、進行を遅らせる薬、その薬の副作用を抑える薬、さらにその副作用を抑えたり、胃を荒らさない薬などを飲み続けた。

毎年インフルエンザワクチンを打って、晩年はほとんど家からでないのにしょっちゅうインフルエンザかかり、「ワクチンのおかげで軽く済んだ」と言っていた。

僕が自身の健康問題に取り組み、回復させていった経験が役立つかもと、食事のことや薬のことを話しても聞く耳持たず、

「あんたはお医者さまじゃないでしょ! プロの人が言うことの方が正しいに決まってるでしょ!」

と怒鳴られた。これは、その後に癌になった父へあれこれ伝えた時も同様だった。二人とも、まったく食生活や、医療に対して疑問を抱いていなかったし、むしろ僕の言う食事療法や伝統的な医療や治療法を「オカルト」とか「迷信」とし、取り合わなかった。息子の言葉より、権威ある医師や、もっと根深い「常識」には勝てないのだと知った。

母はやがて晩年、認知症のような症状も発症させ、最後の数年は胃ろうと人工呼吸器で繋がれ、生きる屍のようだった。そして69年の生涯を閉じたが、僕としては悲しいなんて気持ちよりも、ほっとしただけだ。やっと、楽になってくれたと。

起こることは全て最善だが…

母の病気は、母が作り出したものだろうし、母が死んだのは、母の寿命だ。それ以外にない。だから母の選択や、母に施された外部からの処置はそういう視点で考えると「すべて最善」だった。

これはある種の真実だ。

あなたの人生にこれまで起きたことは、すべて最善のことだった。だから、母の生き方も、最善だった。

しかし、それは母にとっての最善であり、母の問題だ。

我々、特に息子である僕は、この一人の人間の一生を垣間見て、何かを学び、自分の人生の糧にすべてだと思う。

だからこうして、文章にして取り上げている。西洋医学に対するジャッジや否定ではない。あくまでも「問題提起」だ。

「あなたはどう思うか?」

ということを問いたいのだ。常に、我々の喉元に突きつけられていることを忘れてはいけない。我々は常に選択に迫られている。誰かが答えを与えてくれる、なんて考えているのは、自分の体と思考を放棄した母のような生き方をしているのと同じだと思っていい。

人生における貴重な選択を、常識や既成概念に流され、さして何も考えず選ぶのか? 周囲の人や社会の状況で、望まない選択をあえてしてしまうのか? 煩悶し、傷つき、覚悟を持って選ぶのか? 

仮にその選択が同じ内容を選んだとしても、実はその人が今後歩む人生は、大きく変わる。それほど、一瞬の選択が、自分の人生を常に創造し続けているのだ。

どうして母は医者や病院の言いなりだったのか?


まず、どうしてそこまでして、母は医者や病院の言いなりだったのか? 

確かに、苦しい時に何度も助けてくれるので、人はワラにもすがる思いの時に助けられると、その相手がまるで「神様」のように思えてしまうという心理は働くが(そこを悪徳な新興宗教や霊感商法は熟知している)、母の場合はそれもあったけど、それだけではない。

医師や医療を尊敬とか、信頼していたわけではないと思う。

母に限らず、そういう人は多いと思う。信頼もなにも“それ以前”の問題なのだ。それはまるで「お箸は右、お茶碗は左!」とか、「青信号は進め!赤は止まれ!」というくらい、彼らの常識なのだ。

これを別の言い方にすると「洗脳」と言う。その洗脳を施したのは、マスメディアと政府機関だろう。医療業界と癒着し、ドル箱産業を作り上げ、病人が増えるほどに潤う人たちがメディア側にいるのだ。

この洗脳は「病気は医者が治してくれる」「体のことは病院がやってくれる」「病気は病院に行かないと治らない」「医者は立派で偉い人」などの常識を刷り込んだ。

これは母のレベルになるともう「信仰」に近いものだったと思う。具合が悪かったら薬、病院、医者。病院教の信者だ。

さきほど「自然治癒力」というワードを出したけど、自分が自分の体を管理し、回復させるということは、完全に消し去られていた。機械が壊れたら修理屋に頼むようなものとして、肉体に不調が出たら、専門家じゃないと治せないと思っている。

いや、実はそれすらも“それ以前”の問題があり、そもそも『自分のことは自分で考える』ということが奪われていた。

(これこそが現代人の病の根幹中の根幹にあり、それを仕掛けられたのだ)

肉体という、自分の人生の重要なものを、自分で扱わず、修理屋に頼むだけになっているのは、思考を放棄しているようなものであり、そのメンタリティが、人生の他の部分にも大きく及んでいた。

自分の人生の目的、意味、洞察、自己価値、自己愛。それが欠如した状態で、社会でお金と時間に追われる生活を送り、ますます考えなくなる。

当然、自己への愛が不足した人間は、他者への愛も希薄になる。自分の余裕がある時だけ優しくできて、自分に余裕がないと、自分の保身のことしか考えれないという、未熟な状態を発露する。

コロナは何を教えてくれたのか?


母はコロナ問題が勃発した2020年7月に亡くなった。葬式は僕と妻と息子の3人だけの家族葬。他の親戚は高齢者も多いし、その頃は誰も呼べる時期ではない。おかげで、個人的にはすごく楽だった。父の葬儀は参列者が100人以上いて、とにかく大規模で大変だった。顔が広いのも考えものだ。

コロナという病気になると、2020年は「咳」から重度になると「呼吸困難」のような肺炎が起きるとされ、それが危険視された。

確かにそういう人たちは初期はいた。しかし、それすらほんの一部であり、交通事故死の後にもPCR検査をして、陽性だったら「コロナ死」にカウントされるという馬鹿げたことが平気で日本中、世界中で行われた。

ワクチンに関しても、日本の接種率は世界一だ。元々薬好きというか、病院教に洗脳されている人が多い国なので、政府はさぞ楽だっただろう。

ワクチン投与が始まったあたりから死者数はうなぎ登りだが、その辺はちょっと調べればごろごろ出てくるのでここでは述べない。

こういうのを見ると「怖く」なるかもしれない。ましてワクチン接種した人なら尚更。

先に安心材料としていっておくと、現時点で何もないなら、何もない人が大半。当たり外れのようなものが多いのだ。あらゆるタイプを仕込んでおくことで、「関連性がない」と言えるだから。全部に同じ症状が出てもらっては困るのだ。

先ほども書いたけど、コロナだのワクチンだのを通して、我々は「どうするか?」という問いが突きつけられているだけ。

今も「コオロギ食」「食糧危機」「水不足」「台湾有事」「気候変動」「緊急事態条項」など、メディアの報道を鵜呑みにする人たちから、テレビを信じずにネット情報を調べる層まで、あらゆる階層にこうして『不安要素』が山盛りに与えられている。

さて、どうするか? この時代に、何を選択するか? 何を考えるか?

根幹は「自分の人生を自分で考える」ということだ。答えがなにか?成果したか?結果どうなったか?ということではない。

唯一、正解なんてものがあるのだとしたら

「自分で考え、自分で選択し、自分で行動し、自分でその責任を持つ」

ことが正解だ。その結果や成果ではない。

しかし、この意味を理解する者は少ない。なぜなら、我々は与えられた問題を解き、正解して報酬をもらう、というシステムにあまりにも慣れすぎてて、そのパターンから抜け出せないからだ。常に結果、成果のために、正解を求める。だから我先にと「得する方」「損しない方」を探して右往左往する。

時代の流れ、なのかもしれない。一度、日本人はこうして一億総思考停止状態になり、ズタボロになる必要があるのかもしれない。

そして、今。あなたはこの時代の流れに流されるか? 波の乗るか? 流されるにもしても、自分でまったく自分では漕がないのか? 方向を変える舵は手に取るのか?

責任は、自分。誰のせいでもない。自由とは責任が伴う。しかし、その喜びは、自由な海へ飛び出た者にしかわからない。

お知らせ

☆ 出版記念トークイベント

北海道札幌 4月16日(日) 15時〜17時 札幌コンファレンスホール

札幌 イベント参加2000円 イベント参加+書籍 3500円(札幌、

福岡博多 4月23日(日) 17時〜19時 アクロス福岡

イベント参加2000円 イベント参加+書籍 3500円(札幌、博多)

東京 5月13日(土) 14時〜16時 秋葉原Lounge

大阪 5月21日(日) 14時〜16時 アルファオフィス247(大阪市営地下鉄堺筋線 長堀橋駅 徒歩3分 大阪市営地下鉄御堂筋線 心斎橋駅 徒歩8分)

お申し込みの電子チケットはこちらのサイトから。

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