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カツ丼は、濃い目の味付けだった。

「好きな食べ物はなんですか?」

という質問に窮するようになったのは、ここ10年くらいだろうか…。

どうして返答に困るかと言うと、おそらく『食』全般に対する好みはもちろん、考え方や価値観、哲学などが、玄米菜食や、田畑で作物を育てた事で激変し「すべてに感謝、すべてが美味しい!」、という状態になってしまい、なんだかんだで結局一番「美味い」と思うものは、料理法や味付けよりも“素材そのもの”であり、シンプルなものになってしまった。

しかし、昔は違った。

冒頭の質問には、こう答えた。

「好きな食べ物?プリンだよ」と。

そう、オレは今でこそさほど甘い物をガツガツ食わないが、昔は完全に砂糖中毒だったのだ。
ちなみに、今もプリンは好きだ。しかし、昔ながらの硬めの、カラメルソースがビターなやつが好きで、クリーミーなプリンはさほど好みではない。

「いやいやいや、プリンはおやつでしょ?そうでなくて好きなものは?」

と、会話が続いた場合(けっこうな確率で、この会話になる)、オレは次のように答えた。

「カツ丼!」

そう、俺はカツ丼が大好きだったし、実際今でもかなり好きだろう。カレーライスとカツ丼、親子丼などは、男子の好むメニューだろうが、俺もそこは例外に漏れない。

今回の話は、カツ丼に関する、ちょっとだけ切ない思い出だ。

オレは北海道の生まれ。20歳の頃に、単身、アテもなく、ギターを抱えて上京した。

前しか見てなかったし、未来しか見えなかった。不安よりも、ワクワクとした気持ちしかなかった。

旅立ちの前日の夜、母から「最後に何が食べたい?」と尋ねられた。

別に、何でもよかった。俺にとって両親とか、家とか、街とか、すべて過去の象徴であり、すでにオレの心はまだ見ぬ大都会と、未来への夢と野心しかなかったのだ。

「カツ丼」と答えた。理由は単純だ。ただ好きだったからだ。

「美味しいの作るからね」

と、母は言う。オレはその言葉に白けた気持ちになる。何故なら、母の手指は不自由で、字も書けないのに、料理することなどできない。作るのはホームヘルパーさんであり、オレだったり、父だったり、兄貴の彼女だったりだ。

しかし、料理が得意だった母は、ヘルパーさんに、事細かに分量など指示を出しながら料理を作らせる。横で聞いていて、よく覚えてるもんだと感心したものだ。その細かいレシピの指示のおかげで、確かに、味付けは母の(かなり濃口、甘口)の味だった。母は指示をする事を「私が料理を作る」と、表現していた。

今では、母のその切ない、精一杯の気持ちがわかるが、当時は母の自己顕示欲とか承認欲求としか思わなかったし、何より、オレは母を恨んでいたので、母のために心砕く事を一切するつもりがなかったから、母の「私が作った」という言葉に、毎回イラッとした。

翌日、ヘルパーさんが作った出し汁と、揚げてくれたトンカツで、父がカツ丼を仕上げた。父もその頃には料理ができる人になっていた。

家族で食卓を囲んで…、というわけではなく、母はベットの上で、オレと父はテーブルで、夕食にカツ丼を食べた。

「お前とこうして飯を食うのも、もう当分ないんだな」と、父が寂しそうに言ったが、オレは「ああ…」と言っただけで、ほとんど、無視して、ほぼ一日中付けっぱなしのテレビに視線を送った。

その時ですでに家族で揃って食事なんて事はほとんどなく、オレは上京資金を貯めるためにバイト三昧で、バイト先の店で賄いを食べていたし、時間も不規則だった。
兄も同様、友人達といる事が多かった。男が19、20歳にもなれば、ある意味それは健全だとは思うし、俺は親と一緒にいたいとか、親のためにとか、そんな事を考えるような孝行息子でも、人格の高い息子でもなかった。

何よりも、さっきも書いたが、オレの気持ちはもうそこにはなかった。やっと、この家から離れられる。貧乏とか病気とか介護とか、色んなみじめさのこびりついた家と親から離れて、自由に羽ばたける、羽ばたいてみせると、それしか考えれなかった。

オレはあっという間にカツ丼を平らげた。母の味付けは、甘口で味が濃く、飯がすすむ。オレは母の料理で育ったので、とにかく当時は濃口が好きだったのでのカツ丼はいつも通り美味かった。

オレは当時、かなり早食いだった。友人達と飯を食いに行っても、いつも一番に食い終わり、「早飯早グソ芸のうち」なんて言っていた。

だからその時も、両親との最後の食事(二度と帰るつもりがなかったから)だったが、ゆっくり味わったり、最後の食事の会話に付き合う事もなく、さっさと丼を流しに片付け、自室に行き、翌日の準備をした。

母は不自由な手で、スプーンを持ったまま、せかせか動くオレの動きを追っていた。まだあの頃は、失明はしてなかったが、どんな気持ちで、俺の姿を見ていたのだろう。

美味いカツ丼だったが、二階に行ってから、後味の悪さが残っていることに気づいた。その後味の悪さの正体は、上手く掴めなかった。
何度も言うが、オレの頭はすでに自分の未来しか興味なかったし、何より、20歳になったばかりのガキだった。無教養で、無鉄砲で、小心者のくせに、ハッタリばかりの大バカ者だった。心の繊細な動向に目を向ける事など出来なかったのだ。

翌日、旅立つ俺に、親父は一万円札を6枚、手渡ししてきた。「選別だ」と。そして「これしか渡せなくてすまん」と。

オレは数日前に、親父に30000円を渡していた。最後の、毎月家に入れていた生活費と、引っ越し先を見つけたら、荷物を配達してもらう分の費用にと。

しかし親父はそれに30000円も上乗せした。当時の親父にとって、30000円はかなり大金だったはずだ。オレは素直に感謝したと共に、息子の旅立ちに、「これしか渡せなくてすまん」と言う父に対して、悲しい気持ちになった。

両親は、2人共、この別れの旅立ちに泣いていた。オレは前日から続く後味の悪さや気まずさから、かえって明るく努めて、笑顔で玄関を出た。

友人達が、車で千歳空港まで送ってくれる手筈になっていて、家の前には数台の車がいた。見送りには20人以上がいた。
オレはギターとバックを、その中のワゴン車の一台に乗せて、自分の体も後部座席のシートに預けた。
そして家を、親を、街を後にした。

車は子供の頃から、当たり前に歩いていた国道に出た。神社の鳥居。駅前へと続く道。窓から見える、当たり前の、そしてこれから当たり前から、過去になっていく景色達を、ぼんやりと眺めた。

涙が出た。
理由はわからない。未だに、わからない。一言では言えない、いろんな気持ちが堰を切った。

カツ丼は好きだ。しかし、カツ丼を食べるときに、ふと思い出す。あの日の、最後に母の味付けの、両親と食べたカツ丼。物の数分で、無口にかき込んだ、濃い味付けのカツ丼。その後の、後味の悪い、いたたまれない気分。

これを後悔と認めたくない自分がいたが、明らかにそれは後悔だった。しかし、それは仕方のない事だったのだ。当時のオレには、それで精一杯だったし、自分の事しか考えられなかった。

「若い男というだけで、それは病気のようなもんだ」
と、中上健二という小説家が言っていたように、病気の若い男が、周囲の気遣いをする事はなかなかできない。自分の事だけて余裕がなかった。

今は、自分の家族がいる。妻と息子と。
3人で食事をする。味わいながら、楽しみながら、会話しながら、食べている。日々の当たり前を、食事という、人間の営みを、温かいものとして、共有したいと思う。


しかし、もし息子が大きくなってから、いつかのオレのように無愛想に、逃げるように飯をかき込んでも、オレは腹を立てる事はないだろう。少し、悲しくなるかもしれないが、その気持ちも分かる。

ただ、息子にあんな気まずい思いははさせたくないと思うのだ。美味いカツ丼に、後味の悪さを、残したくないと思うのだ。いや、誰にもさせたくないと思う。

どうか、世界中の親と子が、人と人が、優しい世界で、暖かい気持ちで、関わり合い、豊かな時を過ごせるように、祈るばかりだ。

サムネイル画像のカツ丼は、先月に免許更新に行った帰りに、一人で入った店で食べた。
今でも、カツ丼を食べると、あの日のことを思い出す。そして相変わらず、カツ丼は濃い目の味付けが好きだ。ジュワッと、甘しょっぱいタレが染み込んだカツと、玉ねぎと卵。汁の吸った飯。考えるだけでヨダレものだが、いつもそこには、あの時の後味の悪さも、同時に思い出されてしまう。

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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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