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「迷うから、歩くんだ」 ー山と瞑想の日々ー

「山と瞑想の日々」

「山と瞑想の日々」とは、ケンスケと山との関係、山への思い、山に関する雑記など、思いのまま綴る文章です。

「迷うから歩くんだ」

前回「高尾山」についての記事で、僕が山に登る理由を、「そこに山があるから」という伝説的登山家の名言を持ち出して、とにかく「好き」だからだ、というようなことを書いた。

確かにそうだ。嘘はない。確かに僕は山や自然が大好きだし、自然の中に身を置く行為や、身を置いている時間が好きだ。

でも、山に行く理由は、好きはもちろん、目的がなくもない。

その目的は“歩きたい”だ。山頂に行くことより、黙々と歩くことが、何よりの喜びであり、僕にとって『JOY』だと、この頃は思うようになった。

もちろん初めて登る山ならばもちろん新しい景色に出会い、今まで知らなかったことを体験と共に知覚していくという新鮮な驚きがあり、そして「〇〇山へ登った」という事実が、自身のレコード(記録)として、確かな手応えと、リアルタイムで積み重なる一つの自信のようなものにつながったりもする。

しかし、僕が山へ行くのは、そんな記録のためでも、自信をつけたいわけでもない。自然の景観に魅了されることは確かだけど、僕にとっては“歩くこと”そのものが重要性を持っているのだ。

そう感じる一番の理由は「考え事」ができるからだと思う。

体を動かしながらの方が脳への血流が上がり、思考力は上がるという事実もある通り、適度な運動は脳を活性化させる。だから僕は歩きながら心置きなく考え事に没頭できる。

そう。僕は考えたいのだ。もっと考えたい。自分のこと。世界のこと。

ではなぜそんなに考えるのか?

それは僕が「迷う」からだろう。

僕はすぐに迷う。登山で迷うのではない。山で迷ったら遭難だ。

そうではなくて、人生のあらゆる局面に対して、僕はすぐに迷い、戸惑う。その度に悩んだり、恐れたり、煩悶したりする。


今この文章を自分の部屋で書いている。パソコンに向かって、コツコツと指をタイプさせている。

しかしずっとそんな作業をしていると、必ず煮詰まるし、家にいる、という時間が積み重なるだけで僕は煮詰まる。

だから毎日近所を散歩したり、自転車に乗る。しかし、それはちょっとした運動に過ぎない。長く座っている時間に対しての、反転させた動作だ。それはそれでとても大事だ。

でも、山に行くと最低でも2、3時間は黙々と歩き続ける。近所を何時間も散歩する気は起きない。

山にいる数時間。僕は実に色んなことを考える。

迷いながら、自分の思考を深く掘り、出てきた思考に対してさらに疑いを持ち、一人で批判し、時に非難し、自分の思考に対して「本当か?」「それでいいのか?」「そんなものか?」と、誰も笑えないツッコミを応酬させ続ける。時に逡巡し、同じことを反芻しながら。

もちろん、家にいても考え事はできるけど、どうも家にいるとついついアウトプット作業をしてしまう。仕事なり、活動してしまう。執筆や制作作業は集中できるのだけど、どういうわけか「考え事」に対する集中は家だと弱い。

だから散歩も良い。街を歩いてもそれはできる。実際にそういう時間もある。しかし上記したように、どうも街の中で長時間歩くのはなんだか「JOY」がないのだ。だから長時間は歩けない。

そもそも街は雑多な情報量というか、多分、さまざまな刺激が多いのだろう。基本的に集中力が低く、周囲に流されやすい僕の思考はすぐに分断され、どこかに持っていかれ、取り止めのない記憶と、当てのない空想に取り憑かれ、影響を受けやすい。

だから僕にとって日々の「瞑想」という時間が大きな意味を持つのだろうとも思う。静かに座り、それらの“影響”から離れる時間を意識的に捻出しないとやってられない。

しかし山にいる時や、自然の中にいるときは、確かに刺激はあるのだけど、街の中の思考の分断とは違うものになる。

それにしても僕はどうしてこんなに迷うのだろうと、時々自分が嫌になることもある。時々、迷いなくやってる人をみると羨ましくなる。そして「ああ、僕もかつて迷いなく目的に向かって邁進するだけの時期があったのに」と、過ぎ去りし日を思うという、全く無意味な思考に耽ることもある。若い頃なんて迷いなく突き進むものだ。なぜなら無知だからだ。大人になってあれこれ利便を知り、社会を知ると、どうしても選択肢も増えてしまい、迷いが増えがちだ。

まあ、僕が山の中でどんなことを考えているのかはまた別の機会に譲ろう。今日はとにかく「迷う」ということと、僕と山との関係においてだ。

ちなみに若い頃、僕の特技のひとつは「苦悩すること」だと自負していた。それほど、日々苦悩していたと思う。ちっとやそっとでは答えの出ないような問いや疑問がふつふつと湧いて、ひたすら考えて、ヒントをもらおうと小難しい本をなんか読んで、それを材料に考えたら、余計にこんがらがって…。

しかし、いつからか定かではないが、途中から段々と苦悩する自分がバカらしくなり、気楽に、気ままに生きることを選ぶようになり、僕の「苦悩する能力」は失われていった。

だって「人生とは何か?」とか「人はどうすれば幸せになれるのか?」とか「宇宙の果てはどこか?」なんて考えなくても、ましてそれがちっともわからなくても、人生というやつの時間は進んでいくことがわかったからだ。

しかし僕は再びその能力を獲得しつつあるのかもしれない。

それは僕に何らかの幸福をもたらすのかどうか定かではないが、もはやそれは一般的な幸福論の枠に収めようとするものではなく、僕が自分自身の人生に納得するために、今は必要なのだろうと、容赦無く苦悩する。

山を歩くと、苦悩はなんとも心地よい思考の解放にある。

それは迷いや悩みなのかもしれないけど、体を動かしながら、時に自然の息吹に全身の感覚を開くことで、考えながら同時にガス抜きができているからなのかもしれない。

だから、若い頃の、文字通りの苦しい“苦悩”ではない。当時は脳みそが煮詰まって、蒸気機関車から湯気が漏れるような状態であり、ガス抜きという状態ではなかった。

しかし今はその辺がバランスを取れるようになったのか、たとえ「苦悩」とも呼べるような思考の圧を高める行為も、同時にそこに「JOY(喜び)」がある。だから続けられるし、もっと続けたいと思う。(だから正式に言うと“苦”悩ではないんだろう)

いつだか尊敬される方が仰っていたのだが、「あらゆる行やワークはJOYがなければならない。それがない、ただの苦行ならやめた方がいい」と。

必ずしも人の言うことを鵜呑みにしないが、それについて自分なりに熟考した結果、「ごもっとも!」と激しく同意し、だから以来僕の基準は「JOY」であることだ。

キャンプやトレッキングがレジャーとして流行る理由として「不便さを楽しむ」ことだと前回も書いたけど、僕のように「山に行って、体動かして、汗かいて、ただ考え事というJOYを味わう」なんて、なんて贅沢な時間だろう。

人と行く山も楽しいし、仲間や家族と行く旅も楽しい。けど僕は基本的に一人登山だ。人といるとじっくり考え事ってのはありえないし、自分のペースで、歩けるのも一人登山の醍醐味だ。

ただ、もちろん危険度は上がる。高尾山などの低山なら構わないが、八ヶ岳とか南アルプスのレベルだと慎重に行かないとならない。

例えばどこかで滑落事故や怪我などした場合、一人だと大きな問題に発展するリスクはぐんと高まる。僕は生来のびびり症だが、一人で3000メートル級の山々を登るのは、それくらいでちょうど良いのかもしれない。

しかし、そんなリスクを孕んでいても、一人で自分自身と向き合える、贅沢な時間であることは間違いない。

ちなみに少し「山」から話が逸れるが、僕は「旅」も好きで、それもやはり一人旅が多い。

旅の間も、やはり一人で考え事をする。

特に旅先の居酒屋で、その土地の名物なんかを食いながら、地酒をちびちびや りながら、一人で自分自身と会話をする。

もちろん山とは違い、延々と要領を得ず、どこまで行っても要点のまとまらない「自分」という話し相手と、平行線を辿る会話を繰り広げ続けるだけだ。

しかし、酒が回ってくると話し相手も穏便になったり、だんだんと適当な相槌を打って忖度するので、やはり真剣に考えるのなら山に限る。

ただ、それはもちろん、何度も言うが「JOY」であることだ。

登山という行為自体が、何の生産性もなく、「苦しさと不便さをあえて味わう」という変態的行為なのに、そこでさらに“苦悩を楽しむ”なんて、まさしくドM体質もいいところだが、僕は山の中で、そんな風に、やや常識とは逸脱した喜びに浸っている。

あなたがもしも人生に迷うのなら、山歩きなんてしてみはいかがだろう?何も日本百名山とか登れというのではなく、家の近場で「ハイキング」と検索するといい。必ず体力に見合ったコースがあるはずだ。

山と瞑想。人にとっては、共感されることもあるが、まったく共感されないどころか、ただの苦行僧のように思われる人もいるかもしれない。しかし僕にとってはどちらもJOYなのである。

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