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アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編 n.2。 キャリアの第一歩
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1933年〜1941年。

1933年に文化庁で国家公務員の試験が実施される。合格すれば、イタリアの美術館に配属され、監督官からキャリアを積み、ゆくゆくは館長になるための関門である。

合格者のなかには、パルマ・ブカレッリのほかに、ジュリオ・カルロ・アルガン、ブルーノ・マラヨリ、フェルナンダ・ヴィットゲンスも含まれていた。

ヴィットゲンスはミラノ編で紹介したブレラ美術館の館長。ブルーノ・マラヨリは、解放されたアートと勇士たち。n.6 - イタリアの無名の英雄たち。でも登場する、ナポリのあるカンパーニャ州の美術責任者。

このとき、パルマ・ブカレッリとジュリオ・カルロ・アルガンは23歳。ブルーノ・マラヨリは28歳、フェルナンダ・ヴィットゲンスは30歳。

1933年の試験ではふたりの女性が合格し、ともに、ミラノとローマで戦中はイタリアの芸術を守り、戦後は美術館という機能に革新をもたらすことになる。お互いの存在を認識はしていたようだが、仲良くなることはなく、距離を保ちながら親交していたらしい。

23歳のパルマ・ブカレッリは、ボルゲーゼ美術館の学芸員として配属される。

ボルゲーゼ美術館は、いまも世界中から人が訪れる、ローマでも人気の高い美術館のひとつ。館内には、ベルニーニ、カラヴァッジョ、ラファエロ、ティツィアーノ、イタリアを代表する珠玉の作品が展示されている。

カラヴァッジョ作
馬丁たちの聖母
ベルニーニ作
アポロンとダフネ

アポロンに追われたダフネが
月桂樹に姿を変えようとしている姿
ダフネの指が
月桂樹の葉に変わっていく
ラファエロ作 降架
ティツィアーノ作
キューピッドに目隠しをするヴィーナス
ティツィアーノ作 聖愛と俗愛
ボルゲーゼ美術館

若きパルマにとって、ここで仕事に携われることは、誇りであると同時に楽しい時間であったろう。

館長は、アルド・デ・リナルディス。のちにローマ州の美術館や芸術作品の責任者に任命される博識高く温厚な人物。「解放されたアートと勇士たち。」で登場した主要人物でもあるエミリオ・ラヴァンニーノとも仲が良く、アルド・デ・リナルディスの自宅によく招かれたいた。

当時の彼の自宅は、ボルゲーゼ美術館の中にあった。ラヴァンニーノの娘アレッサンドラが、初めて彼の自宅に招かれた時に、誰もいない美術館を通り、秘密の階段を登った先にある、彼の自宅に足を踏み入れたときはワクワク心が躍るようだったと、日記に残している。

アルド・デ・リナルディスを通して、若きパルマは、エミリオ・ラヴァンニーノと面識を持つようになる。ラヴァンニーノは、パルマからは「ミンミ」と慕われ、信頼のおける年上の良き友人として、同僚として、長年に渡り付き合うようになる。美しいパルマの傍にいることが多く、多くのパルマ崇拝者の嫉妬を買ったらしい。

パルマは母親から躾けられた通り、身だしなみをきちんと整え仕事に励んだ。人目を引く美しい美貌と容姿。それを引き立たせるようなエレガントな服に身を包んだパルマには、誰もが魅了された。

25歳のパルマ
参照:ioDonne
by Ghitta Carell a Roma circa 1935.
(Photo by Fototeca Gilardi/Getty Images)

時はムッソリーニ政権。ムッソリーニは若き学芸員を始め、美術館に勤務する主要な人物を会議に招待する。

Io però ero antifascista convinta; sapevo che quell’invito dal capo del governo era un privilegio, ma all’obbligo di indossare se non la divisa, almeno il distintivo del fascismo, io rifiutai decisamente.
わたしは自分が反ファシストである自覚があります。政府首脳からの招待を受けるのは名誉なことでしょう。ですが、ファシストの制服に身を包むか、記章をつけなければならないのであれば、わたしは行きません。

パルマが生きていく上で指標としていたひとつに「自分に正直であること」が挙げられるが、まさにこの言葉を体現し、会議を欠席する唯一の人物となる。

ナチス軍との同盟は、パルマにとって恐怖でしかなかった。

暗くなった夜中を待ち、自転車でファシスト政権に反するちらしを、各家庭の郵便受けに投函したり、戦時はローマに住むユダヤ人を救出する手助けをする。

1941年、ボルゲーゼ美術館で8年間のキャリアを積んだあと、ローマ中心街より少し外れたところにある、ローマ国立近代美術館に配属になる。

1940年6月にイタリアは大戦に参戦している。それでも、美術館勤務の配置換えがあったりと、並行して普通といえるような生活が存在していたことも興味深い。

当時の館長であるロベルト・パピーニの元で仕事をするようになるが、近代と現代のアートを扱う割には、近代という「過去」のアートに偏りがちな選択に疑問を覚える。

パピーニ館長が、1800年から1900年代初期にかけての作品や、海外のアーティストの作品を購入する一方、パルマは、イタリアの現代アーティストにも目を向けるべきだとして、館長が長期出張で美術館を留守にしている間に、イタリアの現代アーティストの作品を購入する。

彼女の革新的なアイデアや行動に嫌悪感さえ抱いた館長は、パルマに対する評価を下げ、ここでふたりは真っ向から対抗する。

当時のローマには、アーティスト、詩人、文学者、文化人などが集う、プライベートな知的サロンが設けられており、パルマもその一人として名を連ねていた。ローマという立地もあり、そこからの繋がりで、政治家との関わりも強い。

文化庁などに関係する政治家に、自分に対する評価を不当だという旨の手紙をしたため、抗議する。しばらく、ふたりの戦いは続いたが、のちに、パピーニ館長は、大学教授としての席を得て、美術館を後にする。

これは、35歳になったばかりの女性館長が、ローマに誕生したことを意味する。

イタリアが大戦に参戦中でも、戦争が起こっているなど感じられない日常を送ってはいたが、パルマは、やがて、この平和が掻き消されることを予感していた。

次回につづく。


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参考文献:
Regina di quadri. Vita e passioni di Palma Bucarelli, Milano, Mondadori 2010 by Rachele Ferrario

参照表示のない写真は、わたしが撮影したものを掲載しています。


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