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被害者意識を手放すこと 〜個人エッセイ〜 (続編)

前に書いた記事の件で、意見を頂きました(Facebookにて)。もう少し深掘りしてみようかなと思い、書くことにします。

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素の自分を出すということ。Facebookでそういう話になった。色々と飾り付けた自分ではなくて。そういうことだと理解した。

結論から先に言うと、今の自分は、条件付きで自分を認めるという考え方から抜け出せていないようだった。

自分はどうだろうか。自分を愛せているのだろうか。ちょっとでも嫌なことがあると、それを無かったかのように必死で打ち消そうとしてしまう。ダメな自分を受け入れることなどできるわけがない。
過去の事実を今更書き換えることはできない。できることは、自分に責任を持つこと、周りの成功論に飛びつくのではなくて。オリジナルな自分をどのように作り上げるか。今からでも遅くはない。

最後まで、「ダメな自分を認める」ことからは目を背けている感じがした。言われて気づいたことだけど。そんな状態でオリジナルの自分として表現したところで、確かに目指すべき理想からずれているように思えた。

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条件付きの愛情。この辺のことはこれまで全然書いていなかった。もちろん、自分が育ってきた家庭でそんな状況に陥るとは考えにくい。おそらく、自分が気づかないうちにそんな思考を身につけたと考えると、納得できる部分がありそう。

学生時代はテストとか通知票の数字を気にする自分がいた。いつの間にか、他人と比較することを覚えてしまった。学校の勉強を他人と比較することの道具にしてしまっていたような気がする。

よく周りの人たちから勉強が趣味の人と思われていたものだが、自分にとっては他人と比較するための道具に過ぎなかったので、周りに対して「何を勘違いしているのだろう?」と思ったこともある。

いつの間にか、条件付きで自分を認める自分が出来上がっていた。

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素の自分というのは、実際のところ自分でもよくわからない。特に自分は良くない部分を隠し通してきたので、本当によくわからないし、だからこうして自分の印象と他人の印象で食い違いが発生してしまう。

素の自分を知る手段として、自分が好きなこと(ここではブログということにしておく)をしながら、自分の気持ちを測ることが必要なのかもしれない。そうして、ようやく自分のことを自分で自覚するのかもしれない。

実は今回のことで嬉しいこともあった。Facebookでブログから周りの意見を頂くことが最近少なかった。ちゃんと見てくれている人がいるという事実を、まずは自分のこととして受け止めてみたいと思う。

自分は人に見られたい気持ちもあるし、こんなにまで継続できたのは、好きであること以外に理由はないので。

そうすることで、素の自分を自分で認めて、他人の評価に依存しない自分を作り上げられたら、前に進めるような気がする。

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