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撮ることは祈ることに似ている

いのり【祈り・禱り(名)】
祈りとは、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。 自分の中の神と繋がること。 神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。 神の定理は各宗教による。 祈祷(祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう。儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。
「―を捧(ささ)げる」






撮ることは祈ることに似ている、と思うようになった。

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人が何に祈りを捧げるかはその人の自由だ。
しかし、祈られる対象には共通点がある。
祈られる対象は、決まってその人にとって好ましい存在であり、良き方向に向かって欲しいと思うのが原初の祈りである。
(あるいは、失敗することを祈るというのは、何かへの祈りが別の何かへの祈りにスライドした形だ)

私は私が好ましいと思うものを撮ることにしている。
趣味で写真を撮っているのだから、撮りたいものしか撮りたくない。
撮って欲しいと言われるから撮るのでもなく、撮るのが困難だから撮らないのでもなく、撮りたいものしか撮りたくない。

私はきっと写真を撮る行為を通じて、私が好ましいと思うものが今日もこの世界にあることに祈りを捧げているのだと思う。

4つの主体

私は、私のために写真を撮っている。

それがいい写真の撮り方かどうかは知らないし、それが他の撮り方に比べて高尚というわけでもない。
ただ単に、私の中で写真を撮るとはそういう行為というだけだ。

行為としての写真にはおそらく4つの主体が存在する。

1.撮影者(写真を撮る主体)
2.被写体(物・人)
3.カメラ(機種・技術・加工)
4.受け手(写真を見る人・SNS)

人によって写真を撮る理由は様々だが、全てはこの4つに紐づいたもの…かもしれない。

被写体を中心に写真を撮る

これは主に広告といわれるものだ。
撮ることの中心が被写体そのものの場合、それはより仕事の文脈が近い。
あなたが何を撮りたいかではなく、何を撮らなければいけないか。
あなたが撮りたいかどうかに関わらず、あなたは撮らなければならないし、あなたはそれが撮れなければならない。

カメラを中心に写真を撮る
機種・技術・加工ありき。
これが撮れるからとってみる-今流行りの加工だ-旬の色づくり-エモーショナルな雰囲気だ。あるいは、誰々が○○のカメラを使っているから、それをしてみる。
時にはそれもすごく重要なことだし、幅を広げるのはいつだって重要だ、でも大抵の場合はそれが本質だとは思わない。
真にそれを撮りたいかどうかではなく、できるからやってみている、という感覚を受けている。

受け手を中心に撮る
いわゆるSNS映え、人に受ける写真、あるいは、広告として優れた写真。
カメラを中心に撮る行為とも密接に絡み合っている。
SNS映えの写真を撮る人がいたら、その人が楽しんでるのは写真だろうか?それとも、写真を通じて承認が得られることを楽しんでいるのか?
どちらがいい悪いかとかではなく、どちらが目的なのだろうか?

撮影者を中心に撮る

撮影者、とはつまり私である。

私は私に撮って欲しい人の誘いを断り続けている。
私は写真を加工しないことにしている。
私はSNS映えを意識するのをやめた。

私は、私のために写真を撮っている。

被写体を同じように撮れば、同じ写真が撮れる。
カメラ(機種・技術・加工)は再現が可能だ。
SNS映えはごまんと競合がいる。

おそらくに、写真をその人たらしめるは被写体や技術、加工ではなく、''なぜそこでシャッターを切るか''の一点に尽きる。
これは感性とも呼ばれるものだろう。

撮影者を中心に写真を撮ると、4つの主体はこう変わる。

人(何かを好ましいと思う主体)
被写体(好ましいもの)
カメラ(機材や技術や加工)
その後に受け手(受け手・SNS)

今の私は、
まず私ありきで撮りたいものを選び、
その後に被写体がどう撮られたいかを模索し、
カメラの限界を持ってそれに応え、
そしてそれをSNSに上げている。

私の中でこの優先度は覆らない。
最初からSNSを意識していないのだから、いつまでたっても私のinstagramのフォロワーは伸びない。

撮影では対話をしている

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私にとって撮ること自体は祈りだが、実際の撮影では対話をしている。

私は何を撮りたいのか、自己と対話する。
被写体はどう撮られたいのか、被写体と対話する。

何を撮りたいかを考え、足を運ぶ。
どう撮られたいかを知るために、被写体が物ならよく観察し、人である場合は話す。

この場合の被写体における"撮られたい"は、そのものがどう主張しているかではなく、存在としてどうありたいか、である。

私は、被写体がありのままであることを望んでいる。
私が祈りを捧げているのは、被写体そのものであり、ある意味では被写体の考える「自身がどうありたいか」という理想の姿ではない。

被写体が人の場合、いろいろな要望があるものだ。
かっこよく撮って欲しい。綺麗に撮って欲しい。素敵に撮って欲しい。可愛く。強く。優しく。気高く。

でも私はありのままの被写体が好きだからその要望を聞き入れない。
私はドキュメンタリー派なのだ。

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被写体がどうあるべきか、どうすればありのまま撮られることができるか、そういうものを模索しながら撮っている。
(本人が望む望まないに関わらず、等身大を撮りたい)

どう撮られたいか被写体と対話する時、
多分、その存在そのものと私は対話をしている。

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やはり私は、私のために写真を撮っている。

最後に

ちょびっとだけLeicaの話をする。
そう書くと、これが書きたかっただけでしょという人がいるかもしれないが、そうでもない。

人が何を大事に写真を撮るかは個人の自由だし、私の目的にあったカメラがLeicaだったというだけ。
そこには劣後も貴賤もない。
ただ、私は私の目的と、それに合うカメラを見つけられたことの両方が幸運だった。

私はLeicaのD-lux 7を使っている。
今更このカメラについての説明はしないが、手が届く値段で可愛いいカメラだ。気になる人はこれでも読んでほしい。

おそらく、Leicaは自分や被写体と向き合うには最もいいカメラだ。

Leicaは驚くほど素直で、撮ろうと思ったように撮れる。
しかも、撮ろうと思ったより素敵に撮れる。
しかしながら、撮ろうと思ったようにしか撮れない。
矛盾しているようだけれど、矛盾していない。
きっと、この不思議さは実際に撮ってみないと分からない。

LeicaにはLeicaにしか撮れないものがあって、そしてそれは特定の人にとって「私はあれが撮りたい」と目指すようなもの。
Leicaを買う人はLeicaでしか撮れないものにお金を払っている。

私が知る限り、そのような価値を提供できているのがLeicaだけだから、Leicaは現存する宗教なのだ。

私と私、私と被写体の対話のあり方を示してくれたのはLeicaだった。
だから、多分これから長い時をLeicaと共に祈り続けるのだろう。


近況

転職してから会社に忙殺されており、noteやアート、写真に向き合う余裕がありませんでした。
6月末のこの時期、ようやく一息つけたので、こうして書いています。

2021年、やはりアートを始めたいなぁと思っています。写真か、現代アートか、あるいはその両方をどうにか世に出していきたい。どうすれば良いのでしょう?
あるいはnoteに文章を書くことも何かになればいいなと思っています。如何でしょうか。
なにかにならないものですかね。

また、最近ですが、カメラを買い換えようという気持ちになってきました。当然Leicaで、次はQ2かなと思っています。
時期は未定ですが、なるべく早くがいいです。
目下の悩みは、「買って直ぐにQ3が出たらどうしよう…」です。

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