吾唯撮在
初めてカメラを触って7年目になる。
7年にもなれば自分が何を撮りたいかが分かり始めた頃で、
かくいう私もようやくスタイルが1つ固まった気がしている。
どうやら、私は''存在''が撮りたいみたいだ。
特徴
私の写真はなぜだかいつも同じような雰囲気があり、どことなく統一感がある。多分3つの特徴がある。
角度が浅く奥行きが深い、余白が広く主題がわかりやすい、そして多くの写真はほのかに暗い。
(必然的に構図が似がちなことも散見される)
Q2
D-lux 7
Eos kiss x7
撮りたいもの
私は昔から、人や物そのものではなくそれが居る・在る空間、時間、重みといった目に映らないものを撮りたいと感じていた。
人や物と空間は相互に影響を与え合い、私たちは空間によって振る舞いを変え、空気は私たちによって変化する。
どこまでいっても、私たちは世界の一部でしかなく、世界から独立することは不可能だ。
だから、そのままを撮り、飾らずに撮り、あるがままを撮る。
被写体は空間に影響され、私もまた空間の影響を受ける。
そして私と被写体も相互に影響を与え合う。
私たちが影響を与え合う中で、それらが絶妙なバランスで一致した時に、ようやくひとつの画が生み出される。
私はよく友人を撮るが、写真には私と友人の関係値の積み重ねがそのまま写っている気がする。
撮り始めた頃より仲良くなった私たちは、以前は撮れなかったような写真を撮る。
一方で、以前の私たちがまだ探り合っていた頃のような写真を撮ることはもうできない。
そこには私たちなりの時間と重みがあって、過去にも未来にも、この日の私たちにしか撮ることが出来ない。
空間は目線を釘付けにし、空気は佇まいを規定する。これはその日の''空気''そのものなのだ。
私と友人と空間。どれが欠けても同じものを撮ることは出来ない。
当たり前のようで、誰も口にしない事実を胸に私は写真を撮る。
私はただ、私たちがそこにいた事実をそのまま切り取りたいだけだ
認知と解釈
自分の撮り方を形容する際はいつもドキュメンタリー派を名乗ってきた。
ドキュメンタリーを撮る秘訣は解釈を介在させないことだと思う。
私は猫が好きで、かわいさや気高さを好ましく感じているが、一方で撮影者としての私はそういう認知をしていない。
多くの人は、多分猫を撮る時にその可愛さを撮るのではないかと思う。
愛くるしい、可愛らしい姿を撮る。
でも私はそうは撮れない。
私が猫を撮る時、猫を可愛いと思っているわけでも好きと思っているわけでもなく、ただただその在り方を収める。そういう撮り方だ。
そこにいる事実と向き合っている。
ただただ、猫がそこに在る、のである。
一般的な写真が解釈をしているからこそ、解釈をしない自分の写真はどこか印象的に映る-と考えている。(存在が強いと呼んでいる)
きっとこれからも私は存在を撮り続けるのだろう。
吾唯撮在
われ、ただ在るを撮る
もう7年、こんなことをやっている。
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