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クチナシの殺人 終幕

終幕

 以下、染浦絃の自殺現場に残されていた、一連の事件に関する手記の内容である。

 実母──艶島由綺は、芸術一辺倒の人だったらしい。
 らしい、というのはつまり、私は実母の人となりをそれほど詳しく知らないからだ。
 けれど、私はやはり艶島由綺の血を引く娘であった。
 1人の現代美術作家として、艶島由綺という人間を尊敬していた。
 学校での美術の成績は良かったし、幼少期の頃から養親に連れられて美術館を訪れ、実母の作品を鑑賞する機会は度々あった。
 私は他のどんな作家の作品より、艶島由綺の創造する作品を愛していた。
 しかし、その感情を実母に直接伝えることは終ぞなかった。
 私が17歳を迎えた秋のある日、学校から帰ると家の郵便受けに、私宛ての手紙が届いていた。薄い筆圧だったが、それでいて流麗ともいえる筆跡で封筒に記されていた送り主の名は、艶島由綺の母(私の祖母にあたる)である艶島紗和子からだった。
 中には、赤子を抱きかかえた端整な顔立ちの若い女性が写っている写真が入れられていた。写真の中の女性はぎこちない様子で、それでも穏やかな笑みを浮かべて、赤子を抱きかかえていた。
 母は私を愛してくれていたのだと、この時初めて知ったのだ。
 私はすぐに返事を書いた。叶うことなら、母に会いたいと。
 紗和子から返ってきた答えはNOだった。
 しかし、「由綺と顔を合わせることは難しいが、アトリエの様子を見るだけなら」と妥協案を提示してくれた。私はそれを承諾した。
 学校帰りの放課後、私は紗和子と駅前で待ち合わせ、艶島由綺のアトリエへと向かった。
 しかし、そこで想定外な光景を目の当たりにすることになる。
 艶島由綺がアトリエで死んでいた。
 遺体の本当の第一発見者は、祖母の紗和子ではなく私だった。アトリエの扉を開いて中に入らずその場で立ち尽くしていた私を怪訝に思い、様子を見に来た祖母は母の遺体を見つけるなり、アトリエの扉を閉め、私をその場から追い返すようにして家へ帰るよう促した。私が警察を呼んで対処するから、このことは忘れなさい、と。
 母が精神疾患を患っていることは養親から聞いて知っていたが、事態は当時の私が思っていたより深刻だったらしい。
 死因はメディアの報道で知った。毒の入った紅茶を飲んで自殺したという。
 だが、公開されなかった情報もあった。
 アトリエには、母の手によってその自殺の現場が描かれた絵画作品が遺されていた。母は自らの死に様を描いて作品として遺したのだ。これは公にはされなかった。
 その死に様の、なんと美しかったことか。今まで見てきた艶島由綺の作品の中で、最高傑作だと思った。
 それを世間は知らない。
 あの光景を、空間を、私と祖母、そして警察関係者以外は誰も目にすることはなかったのだ。

 実祖母の紗和子が亡くなったという報せが届いたのは、艶島由綺の死から8年が経った日のことだった。
 葬儀は限られた関係者のみで執り行われ、遺骨は母と同じ墓石の下に埋められた。
 その直後、遺産相続に関する相談と遺品整理があるため艶島邸に来てほしい、と紗和子の弁護士から連絡があった。どうやら紗和子は私を相続人として扱ってほしい旨を遺言に認めていたようだった。実母の死後以降、紗和子とはほとんど連絡を取っていなかったので、これにはやや驚いた。養親が手伝いを申し出たが、私はそれを断った。
 かつて、艶島由綺と紗和子が暮らしていたあの家に。あの時、扉を開けただけで中に足を踏み入れることの叶わなかった艶島由綺アトリエに。ついに入ることが叶う好機が訪れたのだ。
 紗和子は末期癌で長い間入院していたらしく、病院で息を引き取ったという。艶島邸は築年数がそれなりに経っていて、おまけに彼女が入院のため家を空けていた間、誰も手入れをしていなかったせいで埃まみれだった。
 一方で、アトリエは鍵が掛けられていて中には入れなかった。由綺の死後、紗和子がアトリエを"封印"する目的で、鍵を掛けたまま長年放置していたという。弁護士曰く、肝心の鍵の行方はおそらく邸内の金庫の中だろうとのことだった。
 専門業者を呼び遺品整理を進める傍ら、金庫の鍵を開けてもらった。
 金庫の中からは、いくらか纏まった金額の入った封筒、複数の預金通帳、家と土地の権利書に登記簿、そして、裸の状態で保管されていたアトリエの鍵が出てきた。梔子の花と葉を模した複雑なデザインが特徴的な、ウォード錠の子鍵だった。
 私は早速、その鍵でアトリエの扉を開けようと試みた。
 しかし。
 扉は開かなかった。
 鍵穴に何か詰められているわけでも、鍵が壊れているわけでもなかった。鍵は鍵穴に差し込めるのだが、回すことはできなかったのだ。
 鍵業者に調べてもらったところ、金庫に保管されていた鍵は純正キーではなく複製キーだろうとのことだった。メーカー名と鍵番号が刻印された純正品ではなく、別の鍵屋で模造されたものだという。おまけにこの鍵はデザインとセキュリティー重視の特注品で、スペアキーとなると純正品と比べ精度がかなり劣る造りになっている。長年金庫に放置されていたと言う保存状態と経年劣化も相俟って、鍵としての役割を果たせなくなったのだろうと告げられた。
 業者から開錠の申し出を受けたけれど、私はそれを丁重に断った。鍵を壊して行う破壊開錠はなるべく避けたかった。それに、あのアトリエの扉を他人に開けられたくなかった。
 では、元々のオリジナルキーはどこへ消えたのか。
 証拠品として警察に押収されたままか、あるいは処分されたか。おそらく、紗和子がアトリエを封じる目的で処分したのだろう。何かあった時のために、スペアキーを作らせてから。
 何はともあれ、金庫から見つかった鍵ではアトリエの扉を開けられないことが判明した。それならばと、アトリエ建築にまつわる書類が残っていないか家中を隈なく探した。そして、鍵の取り付けを依頼した会社を特定し、合鍵を作れないか問い合わせてみた。しかし、その会社はウォード錠の特注品及びそれに該当する製品のスペアキーの受注を4年前に廃止していたため、製造はできないと言われてしまった。
 結果、私は自らピッキングで解錠するという最終手段に出ることにした。
 ピッキングに使う道具は、金庫の開錠を依頼した業者に来てもらい、"お願い"して借りた。そういった指定侵入工具を一般人が所持するのは法律に反する上、特殊な鍵の解錠ともなれば通販で売られているピッキングツールでは不足する恐れがあったため仕方なく、である。ついでに解錠のコツも教わった。鍵穴付近にいくつも傷がついてしまった上、時間はかかったけれど、なんとか開錠に成功した。
 私は逸る思いを落ち着かせながら、扉を開いた。開いた瞬間、私は言葉を失った。
 ようやく足を踏み入れることが叶ったアトリエの中は、空っぽだった。
 文字通り、何も残っていなかったのである。
 あの日私が見た空間を構成していたすべては、警察に押収されたままだった。このアトリエに流れる時間は、抜け殻の状態で止まっていたのだ。

 後に、私は素敵な友人たちの協力を得て艶島由綺の死の真相を知ることができた。
 特に、警察関係者である小西志帆という人物と繋がりを持てたのは僥倖だった。彼女からは隠れ家としてセーフハウスを提供してもらった他、捜査手順の流れや、犯罪において現場に証拠を残さない方法を教わった。指先にマニキュア──目立たないよう透明のトップコートを塗っておくことで指紋の付着を防げる。髪は後ろに纏めてきつく結い上げておくことで抜け落ちにくくできる。他にも、掃除方法などを詳しく。
 ついでに、艶島由綺の自殺に関する捜査資料も調べてもらった。その過程で、母が現場に遺した絵の存在を思い出すと同時に、1冊のノートに辿り着いた。
 友人の立案で、警察の所有する保管庫からそれらを持ち出してもらった。
 母の手記の解読にはかなりの時間を要したけれど、ノートに挟まっていた写真を励みになんとか解読に成功した。
 どうやら母が死を選んだきっかけとなった精神疾患を発症した要因は、母とアートグループを結成した2人の人物に加え、自分の存在が関わっていると判明した。名前などは明記されておらず曖昧に綴られていたものの、母の周辺の人物を調べればすぐに特定できた。
 天清瞳子と花見堂周。私は、彼らが母を間接的に死に追いやったことを恨んではいない。寧ろ、艶島由綺の最期のあの作品を世界で最初に観ることができたことに、感謝の念すら抱いていた。
 しかし、艶島由綺が生きていれば。
 まだ見ぬ彼女の新たな可能性が秘められた作品が生み出されていたかもしれない。
 その芽を摘み取ったのもまた、天清瞳子と花見堂周、そして自分の存在が関わっていた。
 これは、私にとって許されないことだった。罰されるべきで罪であった。
 おまけに、自身が交際していた相手──写真家の丹羽万純が、あろうことか花見堂のかつての教え子だったと知った時は、彼に対して尋常ではない程の嫌悪感を抱いた。生理的に無理というやつである。
 丹羽がアートグループ・クチナシのメンバーとして活動していることは知っていたが、彼は艶島由綺の自殺に直接的な関連性を持たない。だから然程気には留めなかったのだが、これは想定外だった。運命とは数奇なものである。
 とは言いつつも、私はそれまで丹羽のことを純粋に愛していたとかそういう訳ではなかった。単に扱いやすかったから交際していたに過ぎない。丹羽以外にも、指折り数えなければわからない程度には都合の良い男たちがいた。他の男たちにバレたことはなかった。
 とはいえ、だ。丹羽が花見堂のかつての教え子で、艶島由綺の空席を埋めるようにグループに加入したとあらば話は変わってくる。
 その事実を認識した途端、私は躊躇なく丹羽を計画の歯車の一部として利用することに決めたのだった。

 天清瞳子がボランティア活動に取り組むようになったのは、どうやら艶島由綺に対する贖罪の意識があったからだったようだ。
 尊厳を汚され、傷ついてボロボロになった艶島由綺に手を差し伸べられなかった後悔の念から、児童養護施設をはじめとした法人団体のボランティア活動に参加するようになったらしい。
 私としては、自己満足にも程があるだろうというのが本音だった。今更善人の皮を被って罪滅ぼしをしたところで、艶島由綺は帰ってこない。
 私は彼女に連絡を取り、秘密裏に絵画の制作を依頼した。
「自らが思う、絵になる最期を描いてほしい」と。
 幸か不幸か、私の顔立ちは母の生き写しのようだった。瞳子に会う時は艶島由綺の娘であると勘づかれないよう、化粧で顔の印象を変えた。化粧は仕事柄得意だった。ご遺体の顔に死化粧を施すのは日常的だったからだ。名前も偽名を使った。彼女は、私が艶島由綺の娘であることなど気づきもしなかった。
 彼女のアトリエを訪れて目にした完成作品は、赤い花が鏤められたような血染めの絵だった。天清瞳子の作風や人柄から想定していたものとはかなり違ったので、やや面食らった記憶がある。
「私のような人間には、これくらいがお似合いなのです」
 どうやら彼女は自罰的意識を混同しているようだった。私は単に、「絵になる最期」を要求しただけだというのに。芸術に携わる人間として、やってはいけないことを為出かしたのだ。呆れてものも言えなかった。
 お望み通り、私は彼女を暴行の限りを尽くして殺した。
 彼女に睡眠薬を嗅がせて眠らせた後、時間を置いてから筋弛緩剤の錠剤を水で流し込ませた。目覚めた直後に動けないようにするためだ。注射器を用いた液剤の投与を選ばなかったのは、注射針の痕を残したくなかったからだ。声も聞きたくなかったので、口にガムテープも貼っておいた。
 意識のない人間を浴室まで運び込むのは骨が折れたが、なんとか浴槽に横たわらせた。
 意識が戻った彼女を、殴り、蹴り、シャワーヘッドで頭部に打撃を与えた。骨が砕ける感覚が、血に濡れた部分が滑る感覚が、返り血が飛び散る感覚が、私を祝福するようだった。ガムテープから洩れる呻き声は不快だった。こんなことなら呼吸器が麻痺する程度に筋弛緩剤を投与すれば良かったと思った。
 血の赤を見続けているうちに、補色効果で視界が緑に染まっていった。徐々に浴室の中を充たしていく血の匂いに吐き気を催した。咄嗟に換気扇を回そうとして、やめた。万が一、近隣住民から異臭がするなどと通報されれば予定が狂う。仕事柄、血や薬品の匂いには慣れているため耐えられると思っていたけれど、いつもと違った状況ではそうもいかないらしかった。
 何せ人間を殺したのは初めてだったから。
 私にとって許されない罪人の血というものは、私の身体には毒だったのだろう。
 周囲に飛び散った血の赤は、次第に酸化して燻んだ色に変わっていった。艶島由綺が最期に遺した彼岸花の鮮烈な赤とは、まるで比べ物にならなかった。
 あまりにも陳腐な殺害現場の仕上がりに、所詮はこの程度かとがっかりした。
 そこでふと、思い立った。
 画家は作品の仕上げにサインを施すものだ。私もそうしてみようと思った。オリジナリティがあり、私が作者であると示す唯一無二の印だ。
 拠点であるこの街、久地那市(くちなし)と、梔子の花が『洗練』という花言葉を持つことからその名に由来したアートグループ・クチナシ、そして"死人に口なし"という諺を掛けて、遺体の口を縫うのはどうだろうか。私はエンバーマーだ。遺体の縫合技術には自信がある。
 そうと決まれば仕事道具が必要になる。予定外の支度だったけれど、少し休憩を挟みたかった。私は天清瞳子の遺体を浴室に一旦放置し、彼女の自宅のキッチンを借りて紅茶を淹れた。無論、犯人の身元特定に繋がる指紋と唾液を残さないよう後始末は欠かさなかった。
 母はダージリンを好んでいたらしい。自殺に用いた紅茶もダージリンだったという。そのことを思い出し、母の死因であるドクゼリの存在が脳裏を過った。
 ドクゼリを遺体の口内に詰め込んで、メッセージ性を残すのも面白いかもしれない。
 でも、ドクゼリが死因であることはメディアには報道されていない。当時は、毒入りの紅茶を飲んで自殺したとだけ報じられていた。
 この殺人計画にドクゼリを使用すれば、艶島由綺の自殺について詳細を知る人物による犯行であると警察に教えるようなものである。警察の友人にも、なるべく犯人の特定に繋がる証拠は残さないよう念を押された。
 それでも、だ。
 敢えてメッセージを残し、警察を翻弄させられたらどんなに愉しいだろう。人生で貴重なこの経験を愉しまずしてどうしろというのか。
 ドクゼリが自生している場所には心当たりがあった。
 私は仕事道具とドクゼリの調達を手早く済ませ、天清瞳子の遺体に"サイン"を施した。
 口内にドクゼリの花を詰め、唇を赤い糸で縫合した。
 彼女の口に貼り付けていたガムテープは再び貼り直した。ガムテープを剥がしたら遺体の口が縫われている、なんて、警察側からしても今までにないサプライズだろう。びっくり箱のようなものだ。
 私は満足して、掃除を済ませてから彼女に依頼していた絵を浴室に置いた。記念に写真でも撮ろうかと思ったけれど、手元に残しておきたいと思える程の価値は感じられなかったので、目に焼き付けておくに留めた。

 花見堂周の第一印象は、「あァ、この人が私の実父か」と受け入れるのに然程時間を要しない程度に、"私と似ている"といった感覚を抱かせるものがあった。
 人当たりが良く、落ち着いた雰囲気を醸している。勤務先の大学では教え子に慕われ、自身の制作研究に熱心に取り組んでいた。
 だが、何度か接しているとどこか不自然に感じる言動や仕草が見受けられた。
 穏やかに微笑んでいるのに相手に威圧感を与える表情。声音は柔らかいのに周囲に緊張感を漂わせる姿勢。唐突に発せられる毒のある発言。しかし、意見としては納得のいく合理性を貫いている上、言葉の間の取り方や仕草が計算されたように美しく完成されていたため、相手にそれほど不快感を与えず、寧ろ頼りにされる。花見堂はこれらを無意識におこなっていた。
 これが同族嫌悪かと、私は身を以て痛感した。こんなところで血の繋がりを思い知らされるとは思わなかった。
 制作の依頼は、天清瞳子と同時期にした。彼は画業の傍ら、大学で教授として教鞭を振るっている。2人の間で完成時期に差が出ることを見越しての判断だった。
 無論、彼に会う時も化粧で顔を変えた。当然、偽名を名乗った。彼もまた、私が艶島由綺の娘であることなど、ましてや自分の娘であるなどとは微塵も気づきはしなかった。
 天清瞳子の死後に、会って話をするまでは。

 依頼されていた作品が完成した、と花見堂周から連絡があったのは、天清瞳子殺害から6日が経過した日のことだった。
 私は彼のアトリエに呼び出された。庭を望む窓際の椅子をすすめられしばらく待っていると、彼は2人分のティーセットを運んできた。今回の絵はこの庭を舞台に描いてみた、と私に告げた後、完成した作品を奥から持ってくると言い、彼は奥に引っ込んだ。その隙に彼のティーカップに睡眠薬を入れた。
 その後の彼とのやりとりは、一言一句違わず記憶している。
 それはあまりにも──反吐が出る、と形容するに相応しい出来事だったからだ。
 彼が持って来たキャンバスには、蔦が這った彫像のような少女の死に様が描かれていた。少女の手には手折られた梔子の花が握られていた。
 よりにもよって、手折った花を構図に据えるとは──
 手折るという言葉は、手で花や枝を折るという意味の他に、女性をわがものにする、といった意味も持つ。
 かつて彼が艶島由綺を手籠にしたことを暗喩するかのような絵ではないか。
 黙ってその作品を見つめていた私に、彼は私の斜向かいの椅子に腰掛けながら言った。
「実は先日、友人が亡くなったんです。温和で優しくて明るい人だった。だというのに、あろうことか彼女は殺されたんですよ。それはもう無残な姿で」
 まァ、と私は悲壮な表情を作った。
「それはお気の毒に…」
「私はその友人の遺体の第一発見者というやつでしてね。彼女の死に様を再現した絵が現場にあったのを私は見つけたのです。彼女が描いたものだと一目でわかりました。しかし、それは彼女の作風のコンセプトとはかなりかけ離れていました。おそらく彼女自らの意志ではなく、依頼されて制作したものだろうと思いました。そこでふと貴女のことが浮かびましてね」
 淡々とした口調だった。私は背筋がぞくりと冷える感覚を覚えた。
「貴女が彼女を殺したのでは? 私と同じように、『自らが思う、絵になる最期を描いてほしい』と絵の制作を依頼して、その通りに彼女を殺害したとしか思えない。つまり、次は私の番ではないかと思ったのだが」
 私は思わず唇の端が歪みそうになった。彼は真っ先に私を疑ったのだ。そして、その推理は当たっていた。彼が天清瞳子の遺体の第一発見者になることは計算外だったものの、警察からの事情聴取で彼が事件の概要を知るのは想定の範囲内ではあった。
 私はつとめて平静を装い、彼に純粋な疑問をぶつけた。
「気づいていらしたのなら、どうして作品を完成させたのです? その作品を完成させた暁には殺されるかもしれないとおわかりになっていたのなら、逃げることもできたはず。警察の方にお話ししてしまえば宜しかったのに」
 そう言えば、彼はさも当然のようにあっさりとこう答えた。
「君が私の娘だからだ。そうだろう?」
 私は思わず瞠目した。彼はそこまで気づいていた。いつ気づいたのかは特段興味は湧かなかったので訊かなかった。
 彼は微笑を浮かべながら言う。
「君は私を恨んでいるのだろう。私が君の母親にしてしまったこと。君を捨てさせたこと。私も思うところがないわけではないんだ。だからこそ、君が天清を殺害したことを悟った上で、君からの依頼であるこの絵を完成させた。君には私に復讐する権利がある。そして、娘の我儘のひとつやふたつ、聞いてやるのも親の務めだ」
 今更、父親面をするのか。
 復讐を受けて然るべきだと認め、殺されることを厭わず受け入れるというのか。
 この男は、私の計画を、子供の可愛い我儘だと捉えているのか。
 あァ──
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い──
 頭の裏が熱い。
 肌が粟立つ。
 吐き気がする。
 心の底から嫌悪感が湧いて出る。
 この男と同じ血が自分にも流れていると思うと舌を噛みちぎりたくなる。
 何より、私の思惑を軽んじられたことに耐えられなかった。
 その感情は顔には出さなかったけれど。
「何か思い違いをしていらっしゃるようですけれど、私はあなたを恨んでいるわけでも、憎んでいるわけでもないのです。あなたが艶島由綺に植え付けた根深い心の傷など、私には関係ないですもの。私自身が、あなたの為出かしたことに思うところは欠片もありません。あなたと天清瞳子には、寧ろ感謝すらしています」
 私の言葉は意外だったのか、彼の穏やかな顔つきに罅が入ったのがわかった。
「艶島由綺の遺した最期の作品を見ることができた。その点に関しては礼を述べます。けれど、彼女が生きていれば生み出されていたかもしれない未知なる作品の誕生を奪う権利は、あなたにも、天清瞳子にも、私にもない。そうでしょう?」
 私の思いは、ただこの一点のみだ。
「罰を受けるべきよ。あなたも、私も」
 そう呟き、私はティーカップの紅茶を一口啜る振りをした。彼が私の正体に気づいているのなら、彼も私の紅茶に何か薬を盛っているかもしれないと思ったからだ。考えすぎかもしれないが、警戒するに越したことはない。
 すると、彼も会話の隙間を埋めようとしたのか、釣られたようにティーカップを手に取った。彼は躊躇なく紅茶を飲んだ。
 所謂、ミラーリングという行動だ。心理学で使われる言葉で、「同調効果」といわれる。 親密な関係では相手と同じ動作をすることが多く、好意を抱いている相手と同じ動作をしてしまうことなどもミラー効果である。 逆に人間関係のテクニックとして相手に好感をもってもらうために、意識的にミラーリングを使用することもある。彼の場合は後者だろう。私は、彼がこの動きが癖になっていることを見抜いていた。
 彼は予想通りの動きをしてくれた。おかげで容易に睡眠薬を摂取させることができた。
 少しして、彼はうとうとと瞬きを繰り返しているうちに眠りに落ちた。
 私はアトリエに置かれていた荷運び用の台車に彼を載せ、手袋を装着し、サンダルに履き替えて庭まで運んだ。
 庭が芝生で良かった。土の地面であれば、靴跡や台車の車輪の跡が丸わかりで、証拠になり得るからだ。そういった痕跡はUVライトで辿られると聞いた。
 彼を塀のそばまで運び、塀に背を預けさせるようにして座らせた。そこで筋弛緩剤を口に含ませ、水で流し込んで飲み込ませる。これで意識が戻っても身動きは取れない。彼の身体を地面に横たわらせた。
 塀には目にも鮮やかな鮮緑の蔦が蔓延っていた。私はそれを手で千切り、彼の身体を覆うようにして巻き付けていった。手首足首を重点的に。
 時折、周りを飛び交う羽虫や手足に登ってくる蟻を払い除けながら、彼の身体を蔦で飾る。花壇に植えられていた梔子の花を手折り、彼の手に握らせた。
 少しして彼が目を覚まし、言葉になっていない声が洩れ出た。何か言いたげにこちらに視線を向けていたが、筋肉が思い通りに動かないせいで言葉を紡げずにいるようだった。
 私は醜いものを見下ろしている気分で彼の軸椎をなぞった。
「ねェ、ご存知? 軸椎──私が今なぞっている、ここ。喉仏の骨を折ると、呼吸困難に陥って容易に死に至るのだけれど、この骨を折るのはとても簡単なの。サムターンのツマミを回すみたいに、ひと思いにここを摘んで捻ればいいの」
 私の言葉に、彼は黙り込む。これからその手段で殺されることを悟ったようだった。私は目を細めて続けた。
「本当はその憎らしい目玉を刳り抜いて、皮膚を剥いで、臓腑を引き摺り出して、人体福笑いでもして遊んでみたかったのだけれど。私、エンバーマーだから、人体の構造はそれなりに理解しているのよ。生まれてきたことを後悔したくなるような苦痛を与えることもできる。だけどこうして、敢えて回りくどい手段を選んだのは、偏に艶島由綺へのリスペクトからきているの。オマージュ、といったかしら。自らの死に様を描いてその通りに死んで作品として昇華するなんて、誰でも思いつくことじゃない。あの人は、真の芸術家よ」
 私は彼の軸椎を摘むように触れた。そして。
 骨が折れる生々しい振動が指先に伝った。
 ひゅ、と息が洩れる音がして、彼は死んだ。
 辺りは風もなく静かだった。
 刹那、脱力感とともに酷い頭痛に見舞われた。後ろにきつく結い上げていた髪を解いて頭を掻き毟りたくなった。
 私はのろのろと立ち上がるとアトリエの窓際の椅子に戻り、ひと息ついた。あまり長居はしたくなかったけれど、すぐにここを後にするわけにはいかなかった。まだ、作品に施す仕上げの"サイン"と、後始末の掃除が残っているのだから──
 正直、その後の記憶は曖昧だ。証拠となる何かを残したまま、見逃してしまったかもしれない。
 でも、最低限の目的は果たした。

 あとは私が命を絶つだけだ。

 1年かけて、私は艶島由綺のアトリエを再現するための準備を密かに進めてきた。
 あの空間に配置されていたテーブル、テーブルクロス、ティーセット、硝子の器、ドクゼリ、フィルムカメラ、ワインボトル、棚、フォトフレーム、チューブ絵具、筆、刷毛、絵皿、パレット、ペインティングオイル、イーゼル、カルトン、キャンバス、デッサン、スケッチブック、版画、画集、ドライフラワー、そして彼岸花に至るまで、記憶を頼りにすべてを掻き集めた。
 これは余談ではあるが、現場を再現しようとアトリエに入り浸っていた時期に、警察に押収されたままだと思っていたアトリエのオリジナルキーを、アトリエの床下の小さな収納スペースから見つけたことをここに追記しておく。灯台下暗しというか何というか。
 艶島由綺の自殺現場は密室だったと捜査資料に記されていたと小西志帆からは聞いていた。
 きっと、紗和子があの空間を密室に仕立て上げたのだ。私を巻き込まないよう、もし他殺の線で警察に追われても、当時はおそらく使えたのであろうアトリエの複製キーを持つ紗和子に疑いが向くように。
 だって、私が艶島由綺の遺体を見つけた時、アトリエの扉の鍵は開いていたのだから。
 ピッキングで解錠した後、すぐに鍵を交換してしまった今となっては不要なものとなったそれを、私は敢えて自宅に置き去りにして姿を消すことにした。処分するなり、肌身離さず持ち歩くなりすべきところではあったけれど、最終的には私の最期を警察に見届けさせるためのトリガーとしての役割を担わせたかったからだ。
 鍵の詳細を特定されれば、必然的に艶島由綺のアトリエに警察の目が向く。そのタイミングは、小西志帆に委ねることにした。
 役者は揃った。ここからは、終わりの舞台を仕上げる時間だ。

 警察の友人から、そろそろ限界だと連絡が来た。警察に艶島由綺のアトリエが拠点である可能性を特定され、突入準備に入ったとのことだった。
 タイムリミットはすぐそこに迫っていた。

「あァ、これで、やっと──」

 全部終わったよ。
 そっちにいくから待っててね。
 お母さん。

「──以上が事の顛末。全部話したよ」
 晴れた日の昼下がり。がやがやと混み合うカフェの一席。
 襟足を刈り上げたショートヘアから覗くアメリカンピアスの華奢なシルバーチェーンが揺れる。シンプルなラウンドネックの白いブラウスの上からロイヤルブルーのカーディガンを肩に羽織った女──笹村香は、長い長い話を終えてひと息つくようにアールグレイを啜ると、格子柄のスラックスにハイヒールを履いた足を組み直す。
 その正面には、テーブルの上に端末や手帳を広げ、ペンを片手に忙しなくメモを取る、笹村よりやや年若い雰囲気の女が座っていた。こちらは白の開襟シャツにベージュのジャケットを重ね、濃紺のストライプ地のチノパンにパンプスを履いている。彼女はセミロングの艶やかな茶髪を耳にかけ、鼈甲縁の眼鏡をぐいと押し上げた。
「成程……これがあの《久地那市画家連続殺人事件》のすべて、というわけですか」
 そう言って、彼女は自らのメモを見返して満足そうな表情を浮かべる。
「事件の詳細や捜査の展開だけでなく、思いがけない裏話も聞けたのは嬉しい収穫でした。ありがとうございます」
「お気に召したのなら良かった。……まったく、急に連絡してきたかと思えば、取材に協力してほしいなんて言うから驚いたよ──海老名(えびな)」
 笹村はやれやれといった様子で頬杖をつきながら呟く。
 海老名、と呼ばれた彼女。フルネームは海老名璃(えびなあき)といい、実は笹村が学生時代に所属していた剣道の道場の後輩で、当時から笹村を慕っている熱狂的な笹村ファンであった。現在は若手の推理小説作家として活動している。
 そんな彼女が笹村に取材を申し込んだのは、世間を震撼させた《久地那市画家連続殺人事件》の一部始終を取り上げた小説を執筆するという企画が持ち上がったからである。
 次回作の立案で編集者と話し合っていた際、海老名はふと地元である久地那市で起きた連続殺人事件のことを思い出したのだ。悲劇の画家として知られた艶島由綺には実は娘がおり、その娘が狂気に満ちた動機から引き起こした奇怪な事件は、当時かなり話題になった。艶島由綺の実娘であると発覚した染浦絃は、久地那市初の女性連続殺人鬼としてもその名が広まり、男女問わず魅了し思うままに利用したという逸話からファンも出現する程だった。
 二度とこんな悪夢が起こらないようにという名目で、実際に起きた事件や実在したシリアルキラーをモデルに作られた作品は、小説や映画といったジャンルにおいて数え切れない程存在する。
 ジャック・ザ・リッパー、阿部定、アイリーン・ウォーノス、フォレスト・タッカー…
 有名どころは何人も挙げられるが、とうとう染浦絃もその仲間入りを果たすことになったのだ。
 あの事件から、もう5年の月日が流れていた。笹村は今も尚、刑事1課の捜査班班長として事件に立ち向かう日々を送っている。今日は貴重な休日を、可愛い後輩のために使っているのであった。
「やっぱり、捜査に携わる立場だと独自に情報網を築いていたりするんですね。情報屋とかハッカーとか、日本にもいるんだ…」
 わくわくした顔で海老名が言うと、笹村はチーズケーキにフォークを刺しながら応える。
「あァ、その辺りは出鱈目だから適当に脚色してね」
「え!?」
「自分の手駒の身元特定に繋がるようなこと、一般人に話すわけないでしょ」
 当然のようにそう告げ、チーズケーキを頬張る笹村。
 笹村が取引を結ぶ情報屋の話や、真秀というハッカー少年との密会、小西志帆の追及後のくだりは、笹村の判断でぼかされていたようだ。咄嗟にその辺りを誤魔化し、結果的に話として納得できる結末に持っていった笹村のストーリーテリングに、海老名は開いた口が塞がらなかった。
 ごくん、とチーズケーキを咀嚼して飲み込んだ笹村は、ちらりと海老名を見る。
「どうせなら、犯人を逮捕できなかった私たち無能な警察じゃなく、染浦絃の視点にフォーカスした内容にしたら? その方が売れそうだけど」
 笹村があっさりとした様子でそんなことを提案したので、熱狂的な笹村ファンの海老名は、かっと目を見開いて言う。
「なんてこと言うんですか! 確かに、染浦絃のような人物は話題性があって、魅力的ですけど…」
「けど?」
 フォークを皿に置き、頬杖をついて小首を傾げながら言葉の続きを促す笹村の姿を見た海老名は、堪らず顔を両手で覆った。
「私の一番の推しは笹村先輩なんです…ッ!」
「ふ、なにそれ」
 答えになっているようでなっていない海老名の絞り出すような告白に、笹村は気が抜けたように笑った。笹村の貴重な笑顔を目の当たりにした海老名は思わず天を仰いだ。海老名の目には、笹村の所作すべてが痺れる程格好良く見えるのである。
「でも、仕事に私情を持ち込むのは良くないでしょ」
「裏切り者の部下を告発せずに情報屋として雇った誰かさんに言われたくないです」
「耳が痛いね」
 笹村は肩を竦める。そして、諦めたように「好きにしたらいいよ」と言うのだった。

 こうして、《久地那市画家連続殺人事件》から着想を得たサスペンス小説『クチナシの殺人』が公開されることとなる。



→第1幕
→第2幕
→第3幕
→第4幕


不定期で映像配信・作品展示を行うアートグループ〈ケイケイ〉が1年2ヶ月ぶりに繰り出す新基軸。 インスタレーション/映像表現/絵画世界が渾然一体となって紡がれる“クチナシの惨劇”を貴方は目撃する!計7名の作家が織りなす衝撃の問題作。(※全ての会期を終了しました)

ケイケイ主催企画{糸を引く}
2023年 5/5(金)〜5/7(日)
Design Festa Gallery West 2-A
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3丁目20-18

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当記事、および企画で取り扱っている事件はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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Yuki_Tsuyashima


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