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クチナシの殺人 第3幕

第3幕

 翌日は雨が降っていた。オフィスの窓の外、どんよりと厚い雲に覆われた曇り空を背負いながら、刑事1課の面々は昨日に引き続きそれぞれ捜査を進め、ミーティングを行っていた。
「常盤みどり、66歳。10年前の艶島由綺のかかりつけ医で、当時は久地那大学病院心療内科担当医として勤務。5年前に退職し、現在は久地那市郊外在住。住所は南の端末に送信済み」
 小西の報告を聞いた南が端末を確認する。
「オーケイ。いつでも向かえるよ」
 南の返答を聞いた笹村は頷いてみせると口を開いた。
「南と際田は常盤みどりに会って艶島由綺について事情聴取。小西は花見堂殺害現場の証拠品について調査結果を鑑識に確認。情報が入り次第、逐次メールで私に報告。私はこれから少し出るから」
「了解」
 与えられた指示に従い各々が支度をする中、笹村はデスクに座ったまま自身の携帯端末の画面に表示された、とある人物からのメッセージ通知を確認していた。

〈\u4e00\u4e8c\u3007\u3007\u0020\u8d64\u30a4\u98a8\u8239〉
〈\u5831\u916c\u6c42\u30e0〉

 一見して意味不明な文字列だが、笹村はこのテキストの解読法を知っている。送られてきた文面を解読すると、すかさず〈\u4e86\u89e3〉と返信し、笹村は億劫そうに立ち上がった。
「笹村さんはどちらへ?」
 気怠げな面持ちの笹村に気づいた際田が声をかける。笹村はジャケットを手に取り、オフィスの出口へと足を向けつつ、欠伸を噛み殺しながら答えた。
「ちょっと野暮用」
 そう言い残し、笹村はジャケットを羽織りながらオフィスを後にした。
「野暮用、とは…」
 殺人事件の捜査の真っ只中というこの状況で、野暮用。何か別件で抱えている仕事があるのだろうか。ぼんやりと笹村の後ろ姿を見送っていると、「際田、車回して」と南に急かされる。際田は慌てて車の鍵をデスクから引っ張り出すと、南の後を追ってエレベーターに乗り込んだ。

 雨が降り頻るなか、際田の運転するカローラは、常盤みどりの自宅がある郊外の住宅街へと向かっていた。
 フロントガラスのワイパーが規則的なリズムで雨を跳ね除ける音が響く。
「嫌ァな天気。明日には止むかな」
 今日は煙草ではなく棒付きキャンディーを咥え、助手席のサイドウィンドウに頬杖をついて窓の外を恨めしげに眺める南。雨の日は窓を開けての車中の換気が憚られるため、こういう時だけは口寂しさをキャンディーで誤魔化すのだ。いつものサングラスも今日は留守番である。
「天気予報では、確か明後日まで雨みたいですよ」
 際田が応えると、南は「マジか」と項垂れる。
「雨だと湿気で前髪がキマらないんだよなあ。今日も髪セットしてたら遅刻しそうになったし」
 南はそう言いながら指で毛先をくるくると弄ぶ。いつも出勤時間ギリギリを攻めているくせに、とは際田は言えなかった。
「それにしてもさ、小西が見落としてたのちょっとびっくりしたよね。常盤みどりって、艶島由綺の関係者ではかなり重要人物なのに」
 それに関しては際田も同意見ではあった。ウィンカーを出し、信号を右折しながら際田は頷く。
「艶島由綺の自殺に関する常盤みどりの当時の証言はカルテに即した当たり障りのない内容で、事件性も見られなかったことから証拠品としてカルテを一時的に押収しただけで済まされたみたいですし…。今回の事件と深い関連性があるかと言われると、一見しただけでは不明瞭だったのでは?」
「それは確かにそう。遺体の口の縫合痕から、犯人の特徴として医療従事者である可能性は初期の想定内ではあった。でも常盤みどりは今回の事件の被害者達との直接的な接点と動機が見当たらない」
 南はガリッと音を立ててキャンディーを噛み砕く。
「ま、常盤みどり本人に話を聞いてみないことには何もわからないけどね」

 小西は署内の鑑識課のラボがあるフロアを訪れていた。
 花見堂周の殺害現場に残された証拠品の調査結果を確認するためである。
 ラボの出入口の自動扉を抜けると、そこには広々とした空間にコンピュータや顕微鏡、質量分析計など様々な機械が設置されている。
 パーテーションを隔てた奥の空間には現場の証拠品を並べるスペースがあり、そこに鑑識官の後ろ姿が見えた。
「やァ、待ってたよ」
 訪問者の足音に気づいた白衣の男が小西を振り返って手をひらりと振った。刑事部鑑識課鑑識官主任の檀亮汰(まゆみりょうた)である。すらりとした体躯に纏う白衣の下は黒のワイシャツにベージュのチノパンツ。洒落たデザインのデッキシューズを履いた姿が様になっている。
「檀さん、花見堂周の殺害現場について何かわかりました?」
「あァ。前回と同じだ」
 檀は肩を竦めて端的に答える。
「現場に残されていた絵画についてだけど、被害者のアトリエにあった画材と成分が一致した。こいつが出した答えだから間違いない」
 そう言って誇らしげに質量分析計を撫でる檀。この男、科学捜査において優秀な実績を重ね、久地那署鑑識課史上最年少で鑑識官主任に昇りつめたのだが、当の本人は出世にはさほど関心がない。ついでに他人にも興味がない。彼の興味関心は科学と機械に振り切っている。
「あと、被害者の遺体から薬品の成分が検出されたよ。これも前回の被害者同様、睡眠薬と筋弛緩剤に含まれる成分だ。そして──」
 檀は顕微鏡の側に置かれたシャーレの中の白い花を指し示す。
「遺体の口内に詰められていたこれも、前回同様ドクゼリだった」
 檀はやれやれと白衣のポケットに片手を突っ込み、もう片方の手にはデスクの上に置いていたカップを持ち、コーヒーを一口啜る。小西はその報告を聞き、成程、と顎に手をやる。
「…つまり、連続殺人の可能性が極めて高いと」
「だろうねェ。ここまでメッセージ性に富んだ証拠を残しておきながら、犯人の特定に繋がる直接的な証拠──指紋、毛髪、体液は今のところ見つかっていない。かなりの徹底ぶりだよ。感心するね。僕の家の掃除を頼みたいくらいだ」
 檀の自宅はゴミ屋敷であるらしい、というのは関係者の間ではよく知られた話である。その割に服装が身綺麗なのは、仕事柄証拠品に不純物を紛れさせないためなのだが、あくまで仕事に支障をきたさないようにするためであり、自身のためではないというのが檀の持論だ。実のところ、彼の自宅はゴミで溢れているわけではなく、書物や研究資料が大量に部屋のあちこちに散乱しているせいで足の踏み場がほとんどないだけなのだが。
「一連の事件で、犯人の指紋や毛髪が出てこなかったのは私も妙だと思っていました」
 小西がそう言うと、檀はコーヒーカップをデスクに置きながら応える。
「専門的な知識がないとここまでできない。警察の捜査手順を知っているからこその証拠隠滅。犯人は医療従事者の可能性が高いって話だったけど、そういった部分で見ると警察の人間から捜査に関する知識を得る機会があったんじゃないかな」
 檀はちらりと小西に流し目を向ける。
「"証拠がないのが証拠"──犯人は頭が切れるし知恵もあるんだろうけど、それが却って仇になる。つまりは、"そういう人物が犯人だ"って自己紹介しているようなものだからね」
 小西は檀の視線を受け止めつつ、「確かに」と納得した表情を浮かべる。
 被害者の顧客リストやメールのやりとりに怪しいものが見当たらなかったことで、ハッキングなど情報分野に明るい人物が証拠隠滅に関わっていることを疑い、丹羽万純への容疑が浮上したことを思い返す。
 証拠は残っていようが残っていまいが、それが十分な手がかりになるのだ。
「でも、物的証拠がないと裁判で罪を立証できないのも事実ですよね」
 小西がそんなことを口にするのは意外だったのか、檀は目を瞬かせる。顎に手をやって少し考え込み、檀は頷いた。
「そうだね。実際、本当に罪を犯した被告人が証拠不充分で不起訴、あるいは弁護人の助力、証人による証言で無罪判決が下されたケースは少なくない」
 過去にそういった話は何度か聞いたからね、と檀は言う。
「僕は人間に興味がないから、犯人の動機とかそういう心理的な分野については門外漢だし、容疑者が罪に問われて有罪になろうが無罪放免になろうが、事件が白日の下に晒されようが闇に葬られようが、正直どうでもいいと思っているけど」
 他の警察関係者が聞けば目を剥いてひっくり返りそうな発言だな、と思いながら小西は檀を見る。そんな小西をよそに、檀は爽やかに微笑みながら言葉を続けた。
「それでも、人間に他者の命を奪う正当な理由なんてこの世に存在しないことくらいは理解できるよ。あ、正当防衛は除くけどね」
 檀の言葉に、小西は思いがけず目を見開く。
「檀さんがそんな至極真っ当な考えを持ってるなんて知りませんでした」
「辛辣ゥ」
 あはは、と檀は笑いを零し、再びコーヒーを飲むと小西を見て言った。
「じゃあこれは知ってるかい? 復讐心という感情を持つ生物は人間だけなんだよ」
 目尻に皺を寄せて笑みを湛えながらそう口にした檀。小西はつい興味を惹かれて檀の顔を見返した。
「どういうことです?」
「野生動物、主に肉食獣が生き延びるために他の動物を狩るのは当然だろう? 彼らはあくまで自分と仲間が飢えないために、他の動物の命を奪う。決して、相手に怨恨、憎悪、復讐心を抱いているから命を奪うわけじゃない。そんな醜い感情を糧に他者の命を奪うほどのエネルギーを作り出してしまう生物は、この世界には人間しかいないのさ」
 言われてみれば確かにそうだ。動物が憎しみから復讐を遂げるなどといったことは、怪談話にはありそうなものだが現実的には有り得ない。
「人間には文明があり、文化があり、知恵があり、掟を定めて秩序を維持する力があるけど、裏を返せば、掟がなければ秩序を保てないということだ。人間はこの世界で最も愚かな生物だよ」
 檀の持論を聞いた小西は、彼が人間に興味を抱かない理由に得心がいった。対人コミュニケーション云々といった話ではなく、もっと別の次元で物事を見ている。人間そのものが愚かであると言い切ってしまえるだけの淡白さに加え、その考えに至るだけの経験と怜悧さを持ち合わせている。檀という男の人間性を垣間見た気がして、小西は思わず笑う。笑うしかなかった。
「捻くれてますね、檀さん」
「そんなことないさ。僕ほど真っ直ぐで誠実な男はいないよ。この世界で最も愚かな生物の1人であることは認めるけどね。現にこうして油を売りながらコーヒーを消費するばかりで、肝心の犯人までは特定できていない」
 あァ、愚か愚か、と檀が呟いた時、どこからか機械の電子音が鳴った。
「お、分析終わったかな」
 そう言ってデスクに設置されているモニターに表示された分析結果の画面を見た檀は、唐突にぴしりと固まった。何かの数値の比較グラフが英語表記で出ているデータ画面、ということしか小西にはわからなかったが、檀の表情が真剣な面持ちに変わったのを見て、只事ではない気配を察した。
「何かわかったんですか?」
 話しかける小西を見向きもせず、画面を見つめたまましばし黙考した後、檀はただ一言、「……これは参ったね」と洩らし、画面を閉じるとくるりとモニターに背を向けてラボの自動扉へと歩き出した。
「ちょっ、どちらに行かれるんです?」
 小西が慌てて追いかけ呼び止めると、檀は小西の方を振り向いて言った。
「お腹が痛い」
「……は?」
 みるみるうちに顔色が青くなる檀と、想定外の返答に呆気に取られる小西。
「まずいまずい非常にまずい。今朝食べた消費期限切れの卵が今になって牙を剥いたようだ。おのれ偉大なる人間の胃酸に歯向かうとは…!」
 つい先程まで人間は愚かだなどと持論を展開していたとは思えない捨て台詞を残し、檀はばたばたとラボを飛び出してトイレへ駆け込んでいった。
「………胃酸の殺菌作用を信用しすぎでしょ、あの人」
 1人ラボに取り残された小西は、思わずそう呟く。
 そして、ラボの壁に掛けられた時計を見る。時刻は午前10時半を過ぎたところだった。
 檀がいつ戻るかわからないため、先程聞きそびれた何かしらの分析結果については後で聞こうと思い、「何かわかり次第連絡ください」とデスクに書き置きを残し、小西はラボを後にした。

 常盤みどりの住む家は、高級住宅街に並ぶ灰白色の煉瓦造りの邸宅だった。
 常盤、と彫り込まれた御影石の表札の下に設置されているインターフォンを鳴らそうと門扉の前に立つと、柵の向こう側の庭、門扉すぐ近くの藤棚の下でステッキをついた老婦人が佇んでいるのを見つけ、南が声をかける。
「すみません、先程ご連絡いたしました久地那警察署の者です」
 南の呼びかけに気づいた老婦人が、ゆったりとした動作で振り返る。
「ああ、警察の方ですね。今開けますから、少しお待ちになって」
 朗らかな、よく通る声音だ。老婦人は近くに置いていた白い花柄の傘を広げ、ステッキをつきながらゆっくりと藤棚の下から出てくると、重厚な造りの門扉を開き、にこやかに南と際田を出迎える。
「雨の中大変でしたでしょう。どうぞ入って」
 2人は老婦人に案内されるまま、玄関に入り応接間へと通された。革張りのソファに腰を下ろし、南と際田はレースのクロスが敷かれたテーブル越しに老婦人と向かい合う。
「あなたが常盤みどりさんですね?」
 南が訊ねると、老婦人は「ええ、そうです」と首肯した。
「事前にご連絡差し上げました通り、10年前あなたが担当されていた患者──艶島由綺さんについてお聞きしたいことがあり、こちらへ伺ったのですが…」
 南は言葉を区切ると、ソファの肘置きに立て掛けるようにして置かれたステッキを示してみどりに訊ねる。
「失礼ですが、足を悪くされているのですか?」
 唐突な問いかけに、みどりはつと瞬きをしてからステッキに目を向ける。
「ええ。5年前、リウマチに罹患してしまって。定年を迎える前に退職したのもそれがきっかけで。今はリハビリの効果もあって、少しずつ快復しているのですが、走ったり長時間歩いたりはできなくて」
 まさしく医者の不養生が招いた結果ですわね、とみどりは気恥ずかしそうに述べる。
「おまけに今日は雨でしょう。こんな日は特に膝が痛くて。けれど、雨の音を聴くのが昔から好きなので、さっきみたいにお庭に出てしまうのです」
 その話を聞いた南は、成程と納得した様子を見せた。
「すみません、話題が逸れました。本題は艶島さんについてです」
 南が切り出すと、際田はその隣で手帳とペンを取り出してメモの準備を整える。みどりは膝の上に置いた両の手をきゅっと握り締めた。
「…艶島さん。ええ、よく覚えています。彼女の件は、とても残念でした。担当医として力が及ばなかった。彼女の苦しみを少しでも軽減し、支えとなれるよう努めていたのですが…」
 結果的に自ら命を絶つ選択をした患者の存在を思い返すのは、いくら年月が流れようと辛いことに変わりはない。みどりの心中を察しつつ、南は情報を引き出すべく言葉を選ぶ。
「本日こちらへ伺ったのは、かつて艶島さんとアートグループを結成したメンバーである2人の作家が、先日殺害された事件が起きたからです。その現場で、艶島さんの自殺現場との共通点がいくつかありました。艶島さんが他界した当時、メディアで報道されていないはずの特徴が」
 艶島由綺の自殺に関して、当時メディアで報道された内容は以下である。
・アトリエで遺体として発見された
・死因は服毒自殺である
・艶島由綺は精神疾患を患っていた
・現場の状況から事件性はないものとされた
 一方、現場に残された絵画作品と自殺に用いられたドクゼリ。この2点は世間に公表されていない。
 しかし、艶島由綺の自殺から10年が経った現在、艶島由綺のかつての関係者たちが、艶島由綺の自殺にまつわる非公開の内容と繋がる証拠を残して殺害された。
「艶島さんの自殺について、詳しく知り得る人物がいるはずなんです。当時の捜査では関係性なしと判断され、名前すら挙がらなかった人物が。艶島さんの担当医だったあなたなら、彼女のプライベートもある程度知っていたのでは? そもそも何故、彼女が精神疾患を患ったのか、その原因が関わっているのかも」
 当時の艶島由綺のカルテは、警察に一時押収されたものの事件性なしと断定された後、簡略化した内容を記録するにとどめ、すぐ病院側へ返却された。この簡略化での記録という形式により、当時の警察の捜査の記録保存に対する杜撰さが今になって露呈する形となった。内容は「軽度のうつ状態」としか記されておらず、その状態に陥った原因は不明だったのである。また、3年前に久地那警察署の拠点が移転した関係で、保管していた資料の取り扱いに支障が生じたことも相俟って、小西がその重要性を見落としてしまったのも無理はなかった。
 おまけに、カルテの保存期間は5年と法律で義務付けられている。艶島由綺のカルテはもう病院には残っていないのだ。
 つまり、当時の艶島由綺の詳細な病状に関する情報を得られるかどうかは、常盤みどりの証言に懸かっている。
「………彼女が」
 ふと、みどりが噤んでいた口を徐に開いた。
「艶島さんが最初に診察に来られたのは、今からもう、2、30年ほど近く前になります。ある出来事がきっかけでした」
「ある出来事?」
 南はなるべく穏やかな姿勢を保ち、身を乗り出すようにして聞き返す。みどりは辛さを打ち明けるような神妙な面持ちで頷いた。
「彼女は、性被害に遭ったのです」
 その事実を聞かされた南と際田は息を呑んで目を見開いた。
 艶島由綺について調べる過程で、彼女がそのような被害に遭ったという記録はなかった。つまり、被害届を出していないということになる。
「艶島さんは誰にもそのことを打ち明けられずに過ごしていたところ、後に妊娠が発覚し…」
 最終的に、出産に至ったという。
 南は、俄かには信じがたいといった様子で身を乗り出す。
「それは確かですか?」
 艶島由綺には、母の紗和子以外に血縁者はいなかったはずだ。しかし、みどりはそれを大きく覆す証言を口にした。
「はい。ですが彼女は出産後、子供を特別養子縁組で養子に出したそうです。子供の父親にあたる相手から、『君に子育ては無理だろう』と唆された形で。彼女はそこから精神を病んでしまったのです。…その男性が誰だったのかは、最後まで打ち明けてもらえませんでした」
 思いがけず知らされた新事実に衝撃が走る。際田のメモを取る手が思わず止まるほどであった。
「その子供について知っていることがあればお聞かせ願いたいのですが」
 南が訊ねると、みどりは俯きがちになりながらも記憶を辿るようにして答える。
「女の子だったと聞きました。名前は、確か──絃(いと)ちゃんといいましたかしら。離れ離れになっても、どこかで繋がっていられるように、との思いを込めて付けたと話してくれた記憶があります」
 艶島由綺の実娘・絃。ここへ来て新たに重要人物の名が浮上した。そのような思い入れがあることを語っていたならば、艶島由綺は娘に対して母親としての情を持っていたということだ。
「養子に出した後も、ご養親さん側のご厚意で時折連絡を取り合っていたようでした。絃ちゃんと会うことはなかったそうですが、それでも気にかけていたのでしょう。今は27か28くらいの年齢かと」
 絃が実母の存在を知っていたと仮定した場合、当時のニュース、もしくは養親伝てに艶島由綺の死を耳にし、その詳細を知る機会があった可能性がある。実母の自殺に何か思うところがあったとしても不思議ではない。絃について詳しく調べる必要性が出てきた。
 また、特別養子縁組で養子に出されたのであれば、絃は艶島の姓ではなく養親の姓を名乗っているはずだ。
「ご養親については何か聞いていませんか?」
「絃ちゃんにとても親切に接してくれているようで感謝していると、折に触れてそう話されることはありましたけれど、お名前やお住まいまでは…」
「艶島さんはご養親と連絡を取り合っていたとのことですが、その手段についてはご存知ですか?」
 南の質問の意図を察したのか、みどりはふと顔を上げて答える。
「…あァ、主に文通でのやりとりだったはずです。ご養親さんは絃ちゃんの様子を写真を添えて送ってくださっていたようでしたので。そのお手紙がどこかに残っていれば、ご養親さんのお名前がわかるかもしれません」
 艶島由綺の自殺の現場から押収された証拠品の記録に、郵便物に関するものがあるか確認を取らねば。南と際田は目を合わせて頷くと、ソファから立ち上がる。
「常盤さん、事情聴取のご協力ありがとうございました。また何か思い出したことがあれば、こちらにご連絡ください」
 そう言って南は名刺をみどりに手渡すと、際田を引き連れてみどりの自宅を後にした。

 カローラの助手席に乗り込み、南はシートベルトを締めながら口を開く。
「常盤みどりに殺人は不可能だね」
 隣の運転席でエンジンをかける際田が、「そうですね」と頷く。
「最初の事件──天清瞳子の死因は、シャワーヘッドで頭部を殴られたことによる失血死ですが、他にも身体中に蹴られたことによる外傷があったと報告がありました。被害者は薬で動けなくされている状態だったとはいえ、リウマチで足を悪くしている人物がそんな犯行に及ぶとは考えにくい。花見堂周の殺害についても同様です。薬で眠らせた後、軸椎を折ること自体は可能だとしても、わざわざ遺体を庭まで運び、蔦で覆うという行為は足に負担がかかるはず」
「その通り。丹羽万純への疑いはまだ拭いきれないけど、更なる問題は──」
「艶島由綺の娘である、絃という女性ですね」
 際田はハンドルを握ると、アクセルを踏んで住宅街の道路を抜けていく。
 南は携帯端末を取り出し、笹村へ報告のメールを送信した。
「やっと光明が見えたね」
 

「艶島由綺の娘、ね…」
 野暮用を手早く済ませ、久地那駅近くの路地裏に停めていたセダンの運転席で南からの報告メールを確認した笹村は、特別養子縁組で養子に出されたという艶島由綺の実娘・絃の存在を知り、ふとあることを思い出す。
「天清瞳子…確か、いくつかボランティア活動に参加していたはずだけど」
 際田からの報告では、天清瞳子は芸術活動の支援団体に作品の売り上げの一部を寄付していたほか、ボランティア活動にも参加していた。そのボランティア活動先に、久地那市内の児童養護施設が含まれていたはずだ。
 笹村はしばし考え込んだ後、助手席に置いていたラップトップを開きながら携帯端末から小西に電話をかける。数コール後、小西が着信に応じた。
〈はい、小西です〉
「お疲れ。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、今大丈夫?」
〈はい。何でしょう〉
「南から連絡があってね。常盤みどりへの事情聴取でわかったことがある」
 笹村はひと息間を置いてから続けた。
「艶島由綺には娘がいた。特別養子縁組で養子に出されたらしい」
 告げられた新事実に、小西が息を呑む気配が電話越しに伝わる。
〈艶島由綺に、母親の紗和子以外に血縁者がいたってことですか?〉
「そう。詳細は後で南から連絡があると思う。そこで気になったのが、天清瞳子が参加していたボランティア活動先」
 笹村は手元のラップトップのキーボードを叩きながら天清瞳子に関する報告書の画面を開く。
「際田の報告で、確か一般財団法人の児童養護施設が含まれていた。そこで、27〜28年前に一時的に保護され特別養子縁組で引き取られた、絃って名前の女の子の記録がないか調べてほしい。当時の名前にしては珍しいから、すぐわかるはず」
 笹村が指示すると、小西がPCのキーボードを叩く音が微かに聞こえてきた。
〈天清瞳子のボランティア活動先の、児童養護施設……ありました、"一般財団法人くちなしこども財団"ですね。問い合わせてみます〉
「ありがと。あと、艶島由綺は絃の養親と手紙でやりとりをしていたらしくてね。当時の証拠品に郵便物の記録が残っていれば、養親の名前と当時の住所がわかると思う」
〈成程、わかりました。そっちも調べておきます〉
「よろしく」
〈あ、笹村さん。ついでにご報告したいことが〉
 小西が思い出したように切り出す。
〈花見堂殺害の証拠品分析の結果を鑑識に確認したところ、遺体から検出された筋弛緩剤と睡眠薬の成分、口内に詰められていたドクゼリ、すべて天清瞳子とそっくり同じでした。一連の事件は連続殺人と見るべきかと。また、犯人特定に繋がる指紋、毛髪、体液などは見つかっていないとのことです〉
「…わかった。報告ありがと」
 笹村は短く応え、通話を切る。すると、タイミングを見計らったかのように着信が入った。発信元は鑑識官主任の檀だった。通話ボタンをタップし、着信に応じる。
「はい、笹村」
〈やァ、お疲れ。今いいかい?〉
「ええ。どうしたの? 分析結果だったら小西からさっき聞いたけど」
 笹村がそう言うと、檀は飄々とした口調で答えた。
〈いやァ、小西にはうっかり伝えそびれてしまったことがあってね〉
 うっかり。檀がそう言う時は、敢えてそうしなかったということだ。つまり、班長である笹村にまず第一に直接報告すべきと判断した内容というわけである。笹村はすっと目を細めた。
「成程、それで?」
〈現場から採取した毛髪に、被害者のもの以外に別人の毛髪が見つかった〉
 檀の報告に、笹村は僅かに目を瞠る。
「犯人のものである可能性があると?」
〈あァ。幸運なことに、毛球が付着していたからDNA鑑定が可能だった。データベースで照合したところ、とんでもないことがわかってね──〉
 檀から告げられた内容を聞くなり、笹村の中で点と点が線で繋がった。事件の全容が描かれたパズルのピースが埋まるような感覚だ。窓の外から聞こえる雨音が遠くなる。
「……………」
 しばしの沈黙。笹村は徐に口を開く。
「…わかった。報告ありがと」
『どういたしまして』
 笹村は通話を切り、吐息を零す。ふと窓の外を見遣ると先程までの叩きつけるような本降りとは打って変わって、雨はしとしとと小降りになっていた。
「………煙草が吸いたいな」
 署内のロッカーに置いている鞄にバージニア・エスのボックスとジッポライターをうっかり忘れてきたことを思い返す。仕方ないので、今朝の出勤時に偶然会った九十九から「口寂しくなったらどうぞ」と渡され、ジャケットのポケットに突っ込んだままにしていた飴玉の小袋を取り出す。何の味か特に気にも留めず赤い袋を開けて飴玉を口の中に放り込むと、目の覚めるような酸味と塩味が広がった。
「何これ」
 小袋の表示を見直すと、そこには雄々しい書体で『梅のちから』と書かれていた。てっきり苺かアセロラなどのフルーツフレーバーだと思い込んでいたため、予想外の味に少し驚きつつ、嫌いではない、寧ろ好きな味だったことで笹村はご機嫌に車のエンジンをかける。
「後でおかわり貰おう」
 後回しにしていたランチを摂るべく、笹村は行きつけのカフェへとセダンを走らせるのだった。

「わかりましたよ」
 午後。署に戻った笹村と南と際田を出迎えた小西がミーティングルームに1課の面々を集めて言った。
「南の報告から、艶島由綺の自殺現場の証拠品を洗ったところ、いくつか郵便物の記録が残っていましたが、めぼしいものは見当たらなかったため、電話帳の記録を確認してみました。そしたらビンゴ。唯一夫婦の名義で記された連絡先があったので、その情報と絃という名前を頼りに児童養護施設に問い合わせたところ、裏が取れました」
 そう言って、小西はモニターに記録画像を表示した。
「染浦絃(そめうらいと)、28歳。久地那市内の一般財団法人くちなしこども財団の特別養子縁組に関する記録から、当時目昏摩市(めくらまし)に住んでいた染浦夫妻に養子として引き取られたことが判明しました」
 目昏摩市とは、久地那市から50kmほど離れた北部の市街である。
「目昏摩か…今もそこに住んでるの?」
 南が訊ねると、小西は「それが…」と答えながらモニターにPCの画面を共有した。途端、面々の表情が険しくなる。そこにはなんと、染浦絃の失踪届のデータが表示されたのだ。
「失踪届?」
「そう。染浦夫妻の居住地は変わらず目昏摩市内だけど、染浦絃は1年前に失踪届が出されていたみたい。現在も行方不明で、場合によっては目昏摩の所轄に協力を要請する必要が出てくるかと」
「その前に染浦夫妻に直接事情聴取。要請はその後」
 笹村の指示に、小西はやや戸惑った表情を見せる。
「大丈夫なんですか? 他所の管轄内に無断で事情聴取なんて…」
「事件自体はうちの管轄内で起きてるから問題ない」
 淡々とした口調で言い切る笹村。小西は何か言いたげだったが、諦めたように口を閉じた。
「染浦夫妻の居所は?」
「住所は目昏摩市中央区。詳細はメールで送信済みです」
「南と際田は染浦夫妻に事情聴取。小西は染浦絃の行方の手がかりを追って」
「了解」

 染浦夫妻の家は、目昏摩市内の栄えた市街地近くに建つ高層マンションの一室だった。
「いかにも富裕層って感じだな」
 南が部屋番号を入力してインターホンを鳴らすと、『はい』と穏やかな女性の声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「突然すみません、久地那警察署の者です。染浦さんのお宅で間違いないですか?」
『ええ、そうですが…』
「現在失踪届が出されている染浦絃さんについて、お伺いしたいことがございまして」
 南の言葉に、女性は戸惑ったようにやや間を置いてから『どうぞ』と応える。エントランスの自動扉が開かれ、南と際田はエレベーターホールへ入る。
「さて、どんな展開が待っているのやら」
 南は肩を竦めながら呟くのだった。

 南と際田を出迎えたのは、50代後半くらいの齢と思しき上品な女性だった。勝ち気そうな凛とした目元が印象的だったが、「どうぞ上がってください」と2人を迎え入れる声音は穏やかだった。2人はリビングに通され、促されるままカウチソファに腰を落ち着ける。
「突然お邪魔してすみません」
 南がそう言うと、女性はなんでもないと言うように首を横に振る。
「いえ、とんでもない。娘の行方については、私も知りたいと思っているので」
 女性──染浦夫人は南と際田に向かい合うようにソファに座り、姿勢を正す。
「それで、久地那警察署の方と仰いましたね。目昏摩の警察ではないということは、久地那で起きた事件に関係することでしょうか」
 染浦夫人はどうやら頭の回転が速いようだ。話が早くて助かる、と南は首肯する。
「久地那市内で起きた画家連続殺人事件をご存知のようで」
「ここ数日、ニュースの話題はそれで持ちきりですから」
 そう答える染浦夫人に、南は早速本題で切り込む。
「その事件の被害者たちは、あなたの娘さん──絃さんの実母である艶島由綺という人物と関わりがありました」
「……ええ」
 知っている、と言いたげに頷く染浦夫人の反応を見て、南は身を乗り出す。
「我々は絃さんを今回の事件の重要参考人として行方を追っています。1年前に失踪届が出されているようですが、絃さんについて詳しくお聞かせ願いたく」
 よろしいですか?と問いかける南に、染浦夫人は「はい」と答えた。何から話そうかと逡巡する様子を見せつつ、ゆっくりと口を開く。
「あの子は、子供の頃から美術館が好きでした」
 そう語り出した染浦夫人は、過去を思い返すように目を伏せる。
「当時は、あの子が養子であること、実の母親が艶島さんであることは本人に伝えていませんでしたけれど、艶島さんの描かれた作品をよく眺めていました。やはり血の繋がった親子なのだと、内心切なく感じていました」
 染浦夫人の話を聞き逃すまいと、手帳に内容を書き込む際田。南は黙って話を聞いていた。
「ある日、あの子から唐突に質問されたのです。『私は本当に父さんと母さんの子供なの?』と。あの子が17の頃でした」
 染浦夫妻のどちらとも顔が似ていない、というのは絃本人もとっくに自覚していたらしい。事情はなんとなく察していたものの、染浦夫妻の口から直接伝えたことはなく、絃も聞いて良いものか考えあぐねていたという。それでも絃がとうとう意を決して訊ねてきたため、染浦夫妻は絃に真実の一部を伝えることにした。
 染浦夫妻は養親であること。
 実の母親は艶島由綺であること。
 染浦夫人は、艶島由綺と定期的に手紙のやりとりをしていたこと。
 絃の実の父親にあたる人物については艶島由綺は一切話さなかったため、染浦夫妻も知らないということ。
「ショックというより、やはりといった感じで、納得したように見えました。それ以降、あの子から艶島さんについて聞かれることはありませんでした」
 その後まもなくして、艶島由綺が自ら命を絶った。そのニュースは当時メディアでも報道されたため、染浦夫妻と絃もその訃報を知ることになったが、体面上のこともあり葬儀には参列しなかったという。
 そして絃は高校を卒業後、専門学校に進学した。
「艶島さんの作風のコンセプトに、死生観というものがありました。今思えば、あの子もその影響を少なからず受けていたのだろうと思うのです」
「…と言いますと?」
 南が訊ねると、染浦夫人は続けた。
「絃は美術館で作品を鑑賞することは好きでしたが、絵を描いたり、何か作品を制作するといったことにはさほど関心がなく、元来理系でした。当時の高校の担任の先生からは医学部や薬学部のある大学への進学を勧められ、受験もして入試にも合格したのですが、あの子はそれらを蹴って専門学校への進学を選びました。──遺体衛生保全技術の分野を学びたいという理由で」
 その話を聞き、南はぴくりと片眉を上げ、際田は手帳にメモを書き込む手を止めた。染浦夫人は2人の反応を伺い見ると、こう続けた。
「あの子はエンバーマーの資格を取得し、エンバーマーとして葬儀会社に就職しました」
 ビンゴだ。
 南と際田は目を合わせた。
 一連の事件の犯人の特徴として想定されていた、医療従事者及びそれに相当する技術を保持する者。エンバーマーはそれに該当する。
 遺体の保存、防腐、殺菌、修復を目的とした特殊な処置のことをエンバーミングといい、その資格を有するのがエンバーマーである。薬品を扱うのは勿論のこと、解剖学や外科的な知識を要するほか、死化粧を施す技術も求められる。
「その葬儀会社を教えていただけますか?」
「ええ。確かあの子の名刺が残っていたはず」
 そう言って、染浦夫人はソファから立ち上がると壁際に置かれた木製のチェストの抽斗を開けてしばし物色する。そして、小さなカードケースから1枚の名刺を取り出すと南に差し出した。
「こちらです」
 名刺には、染浦絃という名前、会社名及び職業、電話番号とメールアドレスが記載されていた。
「こちら、しばらくお借りしても?」
「ええ、構いません」
 南は絃の名刺を際田に預ける。際田は渡された名刺を手帳に挟み込んだ。
「これは目昏摩の警察の方からお聞きしたのですが」
 ソファに座り直しながら染浦夫人が口を開く。
「あの子は失踪する直前に職場を退職していたようで。当時持っていた携帯電話、クレジットカード、口座は解約し、車も売却していたことがわかって。あの子が立ち寄りそうな場所にある監視カメラを調べても、足取りは掴めなかったと」
 つまり、絃は自らの意志で計画的に姿を消したということか。足取りを追跡される手段として手がかりとなるものは可能な限り切り捨てたわけだ。絃はかなり頭が切れるのだろう。南は顎に手をやりながら考え込む。
「絃さんが失踪する直前、何か変わったことはありませんでしたか?」
 南が訊ねると、染浦夫人は力なく首を横に振った。
「あの子は就職を機に一人暮らしを始めて、連絡はさほど頻繁には取らなかったのです。最後に顔を合わせたのは、失踪する半年前でしたし……。様子も特に変わったところはなかったように見えました」
「絃さんが一人暮らしをされていた場所はどちらでしょう」
 際田がそう訊ねると、染浦夫人は南と際田を見据えて答えた。
「久地那の郊外にあるマンションです。部屋は既に引き払いましたが、部屋に残されていた物は証拠品として目昏摩の警察署に押収されています」

幕間

 野暮用を済ませるべく、笹村は黒の雨傘を手に、久地那駅近くの大通りを歩いていた。駅が近いとはいえ、この雨の中を出歩く人々はあまり多くない。こんな日は駅の地下道の利用者が増える傾向にあるからだ。
 笹村は交差点で信号が青に変わるのを待つ間、携帯端末を取り出してこれから会う人物とのチャット画面を確認する。

〈\u4e00\u4e8c\u3007\u3007\u0020\u8d64\u30a4\u98a8\u8239〉
〈\u5831\u916c\u6c42\u30e0〉

 この文字列はUnicode(ユニコード)といい、世界の様々な言語、書式、記号に、番号を割り当てて定義した標準の文字コードのことである。ちなみにこれをアンエスケープもとい翻訳すると、
〈一二〇〇 赤イ風船〉
〈報酬求ム〉
となる。〈一二〇〇〉とは、ヒトフタマルマルという自衛隊特有の時間表記、つまり12時を示している。〈赤イ風船〉は、いくつか設定している待ち合わせ場所の目印のひとつだ。
 大通りを途中で右に折れ、寂れた路地裏へと進む。正面の突き当たりに設置されたスライド式の柵を開いて奥へ向かう。徐々に外の光が遮られていく中、1棟の古びたテナントビルに入る。そこは解体工事の途中で放置された所謂ワケアリ物件で現在は立ち入り禁止なのだが、笹村は構うことなく侵入した。
 壁はところどころ解体されており、屋内といえど雨の音がダイレクトに伝わってくる。埃っぽい匂いが雨の匂いと混じり、陰鬱な雰囲気を醸していた。
 閉じた雨傘の水滴をある程度払ってから傘を閉じると、辛うじて腰を下ろせる高さの窓枠に腰掛ける。笹村はそこでしばらく雨宿りすることにした。待ち合わせ場所は近くの路地裏なのだが、どうせ待ち人はいつものようにきっかり15分遅れてやってくる。
 その間、1人で雨の中路地裏に突っ立っているのは、今の笹村には耐えられない。今朝から低気圧の影響で頭痛に苛まれていたからだ。顳顬が痛む典型的な偏頭痛ではなく、頭全体が締めつけられるような鈍い痛みが特徴的な、緊張型頭痛である。
 病院に行くのが億劫で市販の鎮痛剤を服用しているが、次第に薬効に対する耐性がつき、ろくに効かなくなって半年は経つ。
 この事件が解決したら、いい加減病院を受診しようか。
 そんなことを考えながら目を閉じ、事件の捜査内容をざっと思い返しつつ、脳内を整理する時間をやり過ごす。
 事件を追う中で、笹村にはずっと引っかかっていたことがあった。それは喉の奥に魚の小骨が刺さったような、違和感として残り続ける感覚だった。
 1年前、署内の保管庫から艶島由綺の自殺現場の証拠品である絵が何者かにより持ち出され、そのまま行方知れずとなった出来事だ。
 小西が2課の捜査官から聞いた話では、当時上層部の調査が入ったものの、その後進展はなく何も知らされないまま今日に至っているとのことだった。南がぼやいていた通り、内部の人間の仕業である可能性は極めて高い。証拠品紛失の件は揉み消されたと見ていいだろう。ましてや10年前の、事件性のない現場の証拠品である。証拠品が不当に持ち出された挙句、紛失したことは問題視されたとしても、その証拠品自体は重要視されなかったのだろう。
 そもそも、何故艶島由綺の自殺から9年も経った後で、その現場の証拠品が持ち出されたのか。その目的が見えてこなかった。
 あることを思い出すまでは。
「……ふう」
 やがて、メールで指定された時間から10分が経った頃、笹村は立ち上がると傘を開いて外に出た。
 目印は混凝土のビルの壁に描かれた赤い風船の落書き。そこを左に折れた先の袋小路に辿り着くと、笹村はそのビルの非常用口の左側に立ち、端末で時間を確認した。予想ではあと1分で待ち人がそこの非常用口から現れるはずだ。
 笹村はジャケットのポケットから耳栓を取り出し、左耳に嵌めた。端末の時計アプリの秒針をじっと見つめる。
 …3、2、1、
「やァ香! 今日も元気に国家権力のワンコやってる?」
 バン!と勢いよく非常用口の扉を開け放し、笹村の下の名を親しげに呼びながらもにこにこと満面の笑みで皮肉に満ちた挨拶を口にして現れたのは、15歳ほどの細身の少年だった。長い前髪で目元は隠れているものの、端整な顔立ちをしている。グレーのパーカーにデニム、そして履き古されたスニーカーというカジュアルな出で立ちである。
 その国家権力のワンコに、まさしく犬のように尻尾を振って懐いているのはどこの誰だか、などと笹村はわざわざ口にはしない。時間の無駄だからだ。
 笹村は無表情のまま、少年に目を向けることなく端末の電源を落とす。左側から現れた少年の、鼓膜を劈く初手の一撃を防いだ耳栓を外すと、それらをジャケットのポケットに仕舞う。
 そんな笹村の横顔をぱちくりと目を瞬かせて見つめた少年は、何かを察したように盛大な溜め息を洩らした。
「まァた頭痛? 雨の日はほぼ毎回じゃないか、いい加減病院行きなよ。市販の薬が効かなくなって半年だろ?」
 笹村が気象病の頭痛持ちであることをこの少年が知っているのは、笹村と会う日が決まって雨だからだ。
 雨の日の路地裏は、密会にうってつけの条件が揃っている。人気が少なく、会話内容は雨音で掻き消されやすいため、盗聴される恐れがない。
「真秀(ましゅう)、時間が惜しい」
 真秀と呼ばれた少年はむっとした表情を浮かべる。逢瀬を手短に済ませようとする笹村の態度に再び溜め息を吐いた。
「あァ、はいはい。わかったよ」
 やれやれと言いたげに頭を掻き、真秀はパーカーのフードを被りながら外へ出てくると扉を閉めた。
「まったく、大人ってのはせっかちだよね。効率重視なのは理解できるけどさァ──その前に」
 真秀は笹村の傘の中に入り込み、距離をぐっと詰めると、フードを脱いでにっこり笑った。
「昨日の分の報酬」
「……………はァ」
 今度は笹村が溜め息を吐く番だった。そんな笹村の様子に、真秀は不機嫌そうに唇を尖らせる。
「溜め息吐きたいのはボクなんだけど? 久しぶりにアンタから連絡寄越してくれたと思ったら、『1時間以内にアメリカの教育機関の個人情報データベースにハッキングして特定の情報を送れ』だなんて無茶振りしてきてさ。まあボクだからできたけどね?」
 真秀は笹村の雇っている情報屋だった。
 昨日、丹羽万純についてアメリカの教育機関から手っ取り早く情報を収集するため笹村が依頼した情報屋とは、この少年だったのである。
 笹村は、過去にサイバー犯罪対策室からの要請で捜査の協力に応じたとあるサイバー犯罪事件で、自身が検挙したハッカーたち数名と"取引"の下で協力関係を結んでいる。
 身の安全と制限付きの自由を保証する代わりに、情報屋としての能力を笹村個人に提供してもらうという取引だ。ただし、笹村が緊急で無茶な依頼をし、かつその依頼が注文通り解決された場合、情報屋には笹村から個人的に報酬を与えなければならない、という条件が付く。
 真秀はそのうちの1人である。つまり真秀は犯罪者で、笹村に逮捕された過去があるのだが、どういうわけか真秀は笹村に懐いている。
「ほら早く。報酬内容はいつものやつ」
 真秀に報酬をねだられた笹村は、傘を持った右手にぐっと力を込める。真秀の笑顔と反比例するように表情が険しくなる。笹村は渋々といった様子で、ジャケットのポケットに突っ込んでいた左手を、それはそれはぎこちない動きで持ち上げる。そして、その手をぽんと真秀の頭の上に置いた。
「……よく、できました。いいこいいこ」
 刑事1課の面々がこの様子を見たら卒倒するだろう。際田であれば丸い目を見開き、小西であれば五度見し、南であれば爆笑しながら携帯端末で写真を撮るような光景だ。笹村が少年の頭を撫でて褒めるなど、こうでもなければ有り得なかった。
「あは、棒読みでウケる」
「こんなことさせられるなら、口座に100万円振り込む方がマシ」
 少年の頭を機械的な動きでぽんぽんと撫でる笹村を、真秀は愉しげに見つめる。
「生憎だけど、ボク、紙切れには興味ないんだよね。いざとなれば仮想通貨でどうとでもなるし。お金で解決されることを別の手段で代替可能ならそっちを選ぶってだけだよ」
 真秀の価値観は笹村にはほとんど理解できないが、ハッカーとしての能力は折り紙付きだ。おまけに、依頼の報酬に金銭や高価な物品が絡まず安上がりで済むハッカーはこの物好きな少年くらいのものなので、そこは重宝しているのである。
 頭を撫でて褒めるという、笹村にとっては小っ恥ずかしくハードルの高い報酬が毎度の条件なのはやや不満ではあるが。
「はい、もういいでしょ。本題に入って」
 笹村は自棄気味にわしゃわしゃと真秀の髪を掻き混ぜてから手を離す。真秀は物足りなさげだったが、仕方ないと諦めたのかフードを被り直した。尚、笹村の傘の中からは出ないままである。
「1年前に起きたっていう、警察署内の証拠品保管庫に設置されてる監視カメラのクラッキング元の特定の件なら、アンタの予想通りだった」
 そう言って、真秀はデニムのポケットから折り畳まれたメモ用紙を取り出して笹村に差し出す。
「特定したIDと住所。かなり複雑に回線を経由していた上、何重にも暗号化されたプログラムが組み込まれていたから、辿るのに手こずったよ」
 笹村はメモを受け取って開き、記された内容を確認すると、何も言わずにメモを折り畳んでジャケットのポケットに仕舞い込んだ。
「それと、昨夜ターゲットに動きがあったから注文通りにフェイクのデータを盗ませてやった。アンタに何もかも読まれてるって、向こうは気づいていないわけだ」
 真秀はそう言ってくすくすと笑いを零す。しかし、真秀の報告を聞いた笹村の表情は陰鬱なまま変わらなかった。
「…今回ばかりは、この読みは外れてほしかったな」
 俯きながら小さく呟いた笹村の長い前髪が、さらりと目元を覆い隠す。その様子を見た真秀は、困ったように顔を顰めた。
「ボク、香にそんな顔させたくて依頼を受けたわけじゃないんだけど」
 喜んでほしかったのに、と暗に伝える真秀。この少年はいつだって、笹村に喜んでほしい、褒めてほしいといった純粋な承認欲求で協力に応じている。笹村はちらりと真秀に目を向けた。そして、何かを口にしようとした瞬間、笹村のパンツのポケットに仕舞われていた携帯端末から通知音が流れた。先程電源を落としてジャケットのポケットに仕舞ったものとは別の、仕事用の端末だ。緊急の連絡以外は通知を切っている。つまり、この通知は緊急の連絡である。
 笹村は端末を取り出して通知を確認すると、「…もう行かなきゃ」と真秀に告げた。
「協力ありがと。また今度様子見に来るから」
 ぽん、と再び真秀の頭に左手をのせて撫でると、笹村は真秀に背を向けて歩き出した。先程の報酬とは違った流れるようなその仕草に呆気に取られ、真秀は咄嗟に反応できないまま、曲がり角で消えていく笹村の後ろ姿を見送った。
「…狡いよなァ、大人って」
 ぽつりと零れた少年の独り言は、雨の音に掻き消された。

→第2幕
→第4幕


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ケイケイ主催企画{糸を引く}
2023年 5/5(金)〜5/7(日)
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当記事、および企画で取り扱っている事件はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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Yuki_Tsuyashima


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