THE BOY AND THE HERON | 君たちはどう生きるか鑑賞記
12月8日、ついに北米でも『君たちはどう生きるか』が公開となった。
日本での公開からはかなりの時間が過ぎていることもあり、世の盛り上がりは既にひと段落した頃だろうか。けれど今私は、時間差で溢れる思いが止まらずこうしてnoteに向かっている。
熱烈なジブリファンというわけではないけれど、たしなむ程度にはなんだかんだほぼ全てのジブリ作品は見ている。
なんだかんだ子供の頃からジブリと共に成長し、なんだかんだ音楽を聞けば情景が浮かんでしまう。DVDを持っているのに、なんだかんだ金曜ロードショーを毎回見てしまう、もしくは作品によっては何度かお目にかかっているのに見たような見てないような金曜ロードショーをながら見しかしていないものもある。
そんなごくごく一般的な中年日本人というところだ。
ちなみに世間話の一つとしてありがちな「あなたの一番好きなジブリ作品は何?」という会話を幾度となく経験してきたが、その度に悩んでしまうのだ。
「そうだなぁ・・・ラピュタかな。ナウシカ、うーん、やっぱりトトロ・・・。でもかぐや姫も実はかなり好き。風立ちぬも、コクリコ坂も、マーニーも・・・」と。
THE BOY AND THE HERON
数年前に話題になっていた一冊ということもあり、当時私も原作を読んだ。
同タイトルでジブリの新作が作られると発表され、そのこともよく記憶していたし、とても楽しみに待っていたのだ。
しかしまさか海外でそれを見ることになろうとは。
北米でのタイトルは『THE BOY AND THE HERON』
ポスターは少年の横顔。シンプルなサギ男のイラストをポスターに採用していた日本とは少し異なるアプローチだった。
解釈が難しいということは耳にしていたが、できればネタバレなしで私もこの映画に挑みたかったため、鑑賞前に感想等々を目にすることを避けた。
ただ、Instagramのジブリのアカウントでは予告編が流れていたため、完全に封印というわけにはいかなかったのだけれど。
自宅から気軽に行ける範囲だけでもいくつもの映画館があるのだが、驚くことに、そのどのシアターでもこの映画が公開されている。
しかも日本語音声英語字幕版と英語吹き替え版の両方が1日に数回ずつというのだから、期待の大きさが伺える。実際、公開後アメリカでも興行成績1位を記録したらしい。ちなみに現在ゴジラも大ヒット中だそう。
さてそんな現地状況を踏まえ、私自身が体験した今回の『君たちはどう生きるか』体験をつらつら書いていきたいと思う。
感想は膨大になるので、今回は割愛。
実はこれを書いている今は、初回の鑑賞からほぼ10日後、2回目の鑑賞を終えた直後だ。まさかこの短期間で2回も見に行ってしまうほど心奪われてしまうとは想像していなかったというのが正直なところ。それだけ私にとってインパクトが大きかったということだ。
12月8日|公開日、初回鑑賞
昼間の回、かつ字幕版だったこともあるかもしれないが、観客は私ともう一人だけだった。
この作品が難解、そして賛否両論であることも聞いている。
この週末にはランゲージパートナーと感想をシェアする予定もあるため、しっかり内容を把握したかった。まるでミステリーに挑む意気込みで脳みそフル回転で鑑賞したのだった。
「これは何のメタファーなのだろう」「何を意図してこのシーンが設定されているのだろう」「どんなメッセージが込められているのだろう」「この声優は誰だろう」・・・
理解したい、記憶に焼き付けたい、そんなふうに頭ばかり使って2時間の鑑賞を終えると、エンドロールの余韻と共にぐったりと疲労感も押し寄せた。
凄いものを見てしまった感はあるものの、私のリソースベースではこの作品を味わいきれていない、追いついていない、そんな気がしてならなかった。
そう思いながらも、時間を追うごとにじわじわと自分なりの解釈、仮説、疑問、感想、感情が溢れてくる。
そうしてこれまで情報規制のため封印していたリサーチ魂は一気に加速。
解釈・感想動画をいくつも見ては、謎が解けたり、納得したり理解が深まったり、逆に再び疑問が生まれたり・・・この考察が深まる感じが楽しくて仕方ない。
ストーリーや登場人物のスタンスが明確でない分、ロールシャッハテストのように観る人によって、如何様にでも解釈、投影できる。
今回は特に『悪意』という重いテーマを据えているだけに、その蓋を開けたくないと思う人も多いはず。そういう無意識の拒絶がある人にとっては恐ろしくもあり、理解したくない内容かもしれない。それを面白くないと表現する人もいるだろう。
一般論的に観るか、超個人的な体験を投影するか・・・
私は超個人的な体験や意識を投影して観てしまったひとりだ。
怒涛のように溢れ出てきた感想と解釈を友人に聞いてもらい、自分なりにこの映画のテーマと向き合った。つまりは私の奥底にある『悪意』の記憶と向き合う時間にもなったのだ。まるで心理療法の如く。
12月16日|プロフェッショナル仕事の流儀
このタイミングで、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀で創作の舞台裏の様子が放送された。
何というタイミングだろうか、興奮冷めやらぬ今、私もネットの配信機能を利用してこの番組を視聴した。
番組内ではいくつかの答え合わせが明確に語られており、そうかなるほどと、改めて自分の解釈と照らし合わせる。
凡人の私には宮崎駿と高畑勲の才能の差など微塵もわからない。
何なら、興行的には宮崎作品と比べると高畑作品はちょっとマイナー感もある。
けれど、宮崎駿にとって高畑勲という存在がどれほど大きかったのか、私たちが作品の中で『大叔父』に感じた絶対的存在感こそがそれなのだと、先に擬似体験させてくれたからこそ、垣間見えた理解の一端、時系列が真逆であるがそれもまた面白い。
数年前に東京の国立近代美術館で開催された高畑勲展へ行ったことを思い出した。
個人的に『かぐや姫の物語』は大好きな作品の一つだ。単なるかぐや姫の昔話などではない。高畑勲が込めてくれたであろうメッセージに私は魂が震え嗚咽して涙したことを思い出す。
『かぐや姫の物語』でかぐや姫は最後には月へ帰っていく。私たちがよく知る昔話その通りに。
自ら望み地球に生まれ、自ら願い月に帰りたいと意図した。最後は争うこともできず月に帰らざるを得なかった。連れ帰らされた、といってもいい。それはまるで罪に対する罰のように。
これが高畑勲が描いた魂の旅の物語だった。
一方で『君たちはどう生きるか』で眞人は大叔父が理想とする一見平和な世界から清濁併せ持つこの世界に戻ることを選択する。
これが宮崎駿が描いた魂の物語。
この結末はもちろん、宮崎駿の心の内側にある蓄積された哲学から生まれたものだろう。ただこのドキュメンタリーを見たことで、この結末は高畑勲との果てしない対話から幾度も繰り返された化学反応の結果生み出されたものであるということがよりはっきり理解でき、考察に深みが生まれる。
宮崎駿は高畑勲に強い憧れと嫉妬を抱き、永遠の片思いをしていたと表現されていたが、決してそれは一方通行のものではなかったことは言うまでも無い。高畑勲もまた宮崎駿との化学変化によりより高みへと押し上げられていたことだろう。
無意識の世界ではもはや一心同体だったのかもしれない。
そしてもうひとつ。
明言されていたわけではないと記憶しているが、ほぼ答え合わせされたものの一つとして、この映画の舞台鷺沼はどうやら宮崎駿が実際に疎開先として過ごした栃木県の鹿沼であるらしい。
父親は航空機産業の経営者一族で、この地に大きな工場を構えていたという。
実は鹿沼は私にとって土地勘のある場所だ。
主人公眞人が降り立った鷺沼駅、昔の様子を知るわけでもないし、現在は建て替えられているのだろうが、私が知る現代のそれとしっくりと重なる気がしてならない。工場がある場所、そして駅から邸宅へと続く道、豪邸と庭園など、現在は存在しないというが、少し小高いあの場所のことだなと現在の風景が浮かんでくる。
12月19日|2回目鑑賞
たまらずもう一度映画館へ向かってしまった。
1回目の鑑賞から数日の間、ずっと頭で解釈しようとばかりしていたこともあり、2回目は頭は使わず、ただただこの映画の美しい世界に心で没入しようと決め前回とは異なる映画館へ行ってみた。
ここも大きなシネコンだが、たった6ドル。しかも客は私だけ、完全貸切だ。
さぁ、何も考えずこの不思議な世界に没入しよう。
恐ろしいほどの冒頭の火事のシーン、鷺沼の豪邸そして周辺の美しい緑、幾重にも色が重なるマジックアワーの色彩、星が溢れる夜空、耳に染み入る久石譲のサントラ、そしてエンドロールに流れる米津玄師の『地球儀』…
全て、ただひたすらに美しかった。圧巻だった。
本来の美しさを見落としている点では、私が生きるこの世界でも同じことをしている。
溢れる美しさを味わい尽くすことなく、日々に忙殺され、そこにあるささやかな奇跡を見落としているのだろう。そして何か足りないと他の世界にそれを求めてしまう、そういう時間の連続を生きてしまっている。まるでインコのように一心不乱に生きるふりをしている。
何気なく揺れる緑も、空に浮かぶ雲も、カラスが遠くで鳴く声も、あぁ日本の空気だなと思う。
懐かしい栃木の空気、私もあの空気を感じていたんだな、と。
なんて美しい場所だったのだろう。
鹿沼は今もノスタルジックな雰囲気を残す私の大好きな街だ。
いつも不思議な力をくれる特別な場所。
ひととき故郷にかえったようなような気持ちになった。
この映画から深く難解なメッセージも受けとり、ただひたすらに美しい風景と音楽にも没入できた。
遠い異国で感じたから余計にそう感じられたというのもあるだろうか。
こうしてこの映画は個人的に特別思い入れのある一作となった。
しばらくは私の中でこの余韻が続きそうだ。
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