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平安に至るための選択
ほんの少しでも不安があれば、ほんの少しでも不満があれぼ、ほんの少しでも怒りがあれば、ほんの少しでも疑いがあれば、そこには自我と同一化していることに伴う罪悪感が存在します。
もし、罪悪感から完全に解放されていれば、不安や不満や疑いを持つことはできないのです。
これは努力の話ではなく、光の中に闇は入ってくることができないのと同じように、何の努力もなくできなくなるのです。
不満や不安は自我と同一化
自己概念を超えたところにあるもの
すべての人は自己概念を持っています。あなたはどんな自己概念を持っているでしょうか。
その自己概念は穏やかで平安に満ちたものでしょうか。それとも、認めることに苦しみが伴うような、否定的な自己概念でしょうか。
自分自身について信じているいっさいが取り消される方向に導かれることを認めることができますか。
私たちの多くは、それがどれほど苦しみに満ちた自己概念であっても、それを大切に握りしめており、手
どんな世界が見えていようとも、平安に満ちた世界はあなたのものです
私たちは世界を見ています。どんな世界が見えているでしょうか。
罪や罪悪感や恐れからなる自我の世界が見えているでしょうか。それとも、聖霊の赦しの世界が見えているでしょうか。
私たちが持っている思考体系に従って、その知覚は生じます。
自我の思考体系から生じる知覚からは苦しみがもたらされ、聖霊の思考体系から生じる知覚からは平安がもたらされます。
知覚からもたらされる内面の状態を通して、自分の中に
赦しのプロセスには必ず癒しが伴います
赦しは罪悪感を消していきます。それに対して裁きは罪悪感を強化し実在するものとします。
なぜ赦しは罪悪感を消していくのでしょうか。
赦す相手は自分自身なのですが、他者を通してそれは行われるのです。
他者が自分を傷つけ痛みを与えたと感じます。
他者の言動が、自分に嫌な思いをさせたと感じます。
すなわち、その状況において赦される必要があるのは他者であり、自分ではないと思えるのです。
それでも
真の自己を自覚することの中にある揺るぎない平安に至るために
新たに何かを得なければならないとすれば、そのための努力は必要であるはずです。
新たに何かを達成しなければならないとすれば、そこにも努力は必要でしょう。
それらの努力の中に静けさを見い出すことは困難です。そこには焦りがあり、挫折があり、疑いがあり、倦怠感があり、疲れがあるのです。
神への道が静けさに満ちているのは、それが何かを得る道ではなく、ただ、真の自己を思い出すことであるからです。
真の
誰の心の中にもある内なる助け手との関係を育む
誰の心の中にも内なる助け手が存在しています。その助け手との関係はあまりいいとは言えないかもしれません。
いかなる時でも助けてくれる存在として感じられないかもしれません。信頼できる存在であると思えないかもしれません。
私たちは自我と同一化することにあまりにも慣れているので、それを手放して助け手を受け入れることにかなりの抵抗があるのです。
私たちは内なる助け手との関係を少しずつ育んでいく必要があ
心の深くに広がる満たされた虚空
私たちの心の深くに、満たされた虚空と呼べる静寂の地平が広がっています。その無限で永遠なる不滅の地平は、存在の根底に変わることなく在り続けているものです。
この世界のすべては肉体を含めて、変化し移ろいゆくものであり、永遠で不滅のものはありません。
もし、私たちが肉体と自己を同一化しているならば、自分自身を限定された有限なものだと感じることになります。
肉体を含むこの世界との自己同一化を手放して
たえざる喜びに留まることは可能でしょうか
生まれることもなく、死ぬこともなく、それらを超えてまったく変わらず在り続けているもの、それが真の自己です。すべての人はそれでありながらも、そうであることを知らずに生きています。
自分は肉体であり、常に変化するものであり、儚く死すべき運命にあるものとして体験されています。
本来の自己を見失い、迷子となり、孤立と孤独を運命付けられていると感じています。今まで真の自己でなかった時は一度もなく、いつも
二つの成功のどちらを選択しますか。
私たちは誰しも成功することを望みます。
自我にとっての成功とは、獲得したり支配したりすることです。自我が望む自分の外側にある何かを獲得できた時に、それを成功と感じます。また、他者を自分が望むようにコントロールできた時も成功と感じるのです。
一方、聖霊と同一化している真の自己は、充足感、平穏、平安と愛の喜びに目を向けています。その心は外にあるものの獲得には関心がなく、自分の内側にあるものが興味の
真の自己を知ることに困難さを感じるのはなぜですか。
真の自己を知ることに大きな困難を感じるのは、知性の枠内に入らないものをその枠内で捉えようとしているからではないでしょうか。
真の自己とは知られるものではなく、個としての自己が手放されたところにある主観的な認識なのです。
その経験そのものを言葉にすることはできません。言葉で伝えることができないのです。
それについて色々な言葉で説明することはできるかもしれませんが、それそのものを言葉で伝えること
すべての人の前に開かれている主観的な目覚めの可能性
悟りや目覚めという言葉で表現されている状態があります。
もし、その言葉が魅力的に感じられるならば、それを得たいと思うかもしれません。
今それを持っていないと感じるので、それが与えられることを願うかもしれません。
しかしそれは得ることも与えられることもできないものなのです。それはただ常にそうで在るものであり、対象として捉えることができないものです。
太陽や空気はただそこに在るものであり、それ
与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係
当たり前のことですが、持っていないものを与えることはできません。持ってはいるものの、持っていないと信じているものもまた与えることはできないのです。
人は自分が持っているものだけを与えることができます。見方を変えれば、もし私たちが真に何かを与えるならば、私たちはそれを持っていることを自分に証しすることになるのです。
与えるものが与えられる。この原則が正当であるのは、自分に与えられるものは自分が持
この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか
この世界の救いは私にかかっている、救いは私から始まる、私が救われると世界は救われる、私は世界を救うことができる、私はこの世界の救い主の一人である・・・
これらは私と世界の救いとの関係を表現する言葉です。
これらの言葉に違和感を感じるでしょうか。これらの言葉が傲慢に聞こえるでしょうか。バカバカしくてあり得ない虚な言葉でしょうか。真剣にとらえるに値しない言葉でしょうか。
イエスは「私は道であり、
兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるために
兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるためには、その人に対して無防備にならなければなりません。自己防衛の心は、喜びに制限を課すことになるからです。
無防備になるためには、その人の無垢性を見る必要があるのですが、無垢性は今にしか存在できないのです。
もし、私たちがその人の過去を見ているとすれば、そこに無垢性はありません。
過去にあるのは、その人の罪と誤ちと偏見に彩られた幻想だからです
わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である
イエスは聖書の中で、イエスと私たちの関係をぶどうの木とその枝に喩えます。
「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」
枝は木から離れては存在できません。枝の本質は、木の本質とまったく同じであり、どこからが枝でどこからが木であるかと定義することもできません。枝を含めた全体が一つの木なのです。
枝の外見はそれぞれ異なった特徴があり、独自のユニークさがありますが、本質はまったく同じです。
す
無防備でいられないのはなぜですか
もし、誰かに対して無防備でいられないとすれば、私はその人のことを危険な人物だとみなしているに違いありません。
私たちが赤んぼうに対して無防備でいられるのは、その子は私を傷つける危険なものではないと感じているからです。
私を傷つける危険人物の前では、当然自己防衛してしまうことになります。
別の言い方をすれば、自己防衛の態度が「あなたは罪深い危険人物に違いない」とその人に向かって宣言していること