ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に…

ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に触れ、それを呼び覚ます助けとなるかもしれません。あなたの心の中には安らぎと幸せに満ちた場所があります。 ご意見ご質問などあれば、お気軽にご連絡下さい。aroijio3752@icloud.com

最近の記事

自己批判のもがきを受け入れた所にあるもの

自己批判はあまり気持ちの良いものではありません。自己批判が好きな人はいないと思います。 私たちが持つ自己批判の感覚は、何の為に役立つのでしょうか。 自分を情けなくつまらない者だと感じる感覚を選択するのは、何の為なのでしょうか。 それはあまりにも自然で、自分が選択していると思えないかもしれません。しかし、あなたの選択なしにその感覚を抱くことはできないのです。 意識しているかどうかに関わらず、その選択には明確な理由があるのです。 以前に飛べない蝶の話を聞いたことがありま

    • なぜ、自分自身を痛めつけるのでしょう

      私たちはなぜ自分自身を痛めつけるのでしょうか。自分を痛めつけることを手放すとすれば、そこにどんなに恐ろしい事態が待っていると思っているのでしょうか。 もし、あなたが平安で幸せで、素晴らしい存在だとすれば、そこにはどんな恐ろしいことがあると信じているのでしょうか。 私たちが自分自身のことを脆弱でつまらない人間であると決めて生きているとすれば、もちろんそれに相応しい状態を生きることになります。 私たちの多くがその生き方に慣れています。 それは、その生き方を手放すことが恐ろ

      • 真の自己に触れている状態を生きるとどうなるでしょう

        もし、私たちが自分の心にある、私たちが常にそうであったもの、今も昔もそうであるものに戻り、真の自己に触れている状態を生きる時、何かを計画することから解放されます。それは、瞬間瞬間ごとにするべき正しいことを自然に行えるようになるからなのです。 計画を立てなくても、瞬間瞬間ごとに無限に開かれた静寂の地平から生まれる直感に導かれ、すべてのことが調和した状態の中に起こってくるようになるのです。 何をするのかについて「私は知っている」と感じられます。知っていることに疑いが生まれませ

        • 手放すことで失うものは何もありません

          私たちは良い結果を手にすることを望みます。普通そこには結果への執着が存在します。 もし、結果への執着を手放すことができるならばどうなるでしょうか。執着が手放せるならば、展開されるプロセスとしての今を楽しむことができるようになるのです。 そして、今気分よく楽しいことが、それで十分であると感じられるのです。信頼しながら良い結果を待つことができるので、自然に良い結果が訪れるようになります。 ただし、それがどのような良い結果になるのか、あらかじめ知ることはできません。 ただ、

        自己批判のもがきを受け入れた所にあるもの

          心配に関する興味深い事実

          私たちは色々なことで心配することがあると思います。具体的な心配もあれば漠然とした心配もあります。 心配に関してとても興味深い事実があるのです。 それは、私たちの心の深くに、心配していることを期待する思いがあるということです。普通は、私たちは心配していることが起こらないように望んでいると思っています。 しかし、もし、心に心配していることを期待する気持ちがなければ、心配という感覚は起こらないのです。 なぜ、心配していることを期待するのでしょうか。それは罪悪感と結ばれていま

          心配に関する興味深い事実

          手放しゆだねることを恐れる必要はありません

          人生を川の流れにたとえることができます。そして私たちは、その流れに逆らって進むこともできれば、流れに逆らわないで進むこともできるのです。 多くの場合、私たちの努力はその流れに逆らうことに費やされています。 あるがままを受け入れるより、状況を自分の価値観に合うように変えようと望んでしまうのです。 たとえば、私たちは恐れを動機として、他者をコントロールしようとしてしまいます。 その人の望むようにさせることが、自分に何かよくないことをもたらすと考えるのです。 それは流れに

          手放しゆだねることを恐れる必要はありません

          幸せのある場所

          もし、私たちが幸せが見つけられない場所で幸せを探しているとすれば、その努力は報われないという体験をするはずです。 幸せが見つけられない場所とは、私たちが自分の外側に知覚するこの世界なのです。真の幸せは私たちの中にしかないからです。 ある人がイエスに天の国はどこにあるのかと尋ねました。つまり幸せな世界はどこにあるのかと聞いたのです。 イエスの答えはそれはあなたのただ中にあるでした。私たちの中に幸せはいつも変わらず常にあるのです。 幸せは外側を探しても決して見つけることは

          幸せのある場所

          幸せな結末

          もし、私たちの結末は100%幸せな結末であることが保証されており、私たちはそれを遅らせることができるだけだとすれば、また、それが信じられるとすれば、私たちの日常生活はどれほど穏やかなものとなるでしょう。 私たちはそれを疑い信じないことはできますが、神の約束は決して取り消されることはないのです。 私たちの幸せな結末は100%神から保証されています。神の子が滅びることは不可能なのです。滅びることが可能だという夢を見ることができるだけです。 あなたの本質は永遠に不滅な無条件の

          幸せな結末

          いつもあなたの側にある真の豊かさ

          多くの人がお金があれば豊かになれると思っています。お金と豊かさが密接に結びついています。 しかし実際はお金と豊かさは無関係であり、お金がなくとも真に豊かになれば、必要なお金は自然に入ってくるようになるのです。 必要なお金が必要な時に自然に入ってくることは豊かさの一つの表現です。 もし、お金がなければ豊かになれないと信じているとすれば、決して真の豊かさを体験することはありません。 真の豊かさがなければ、いつも欠乏感に悩まされ、不足の状態が続いていきます。 不足の一つの

          いつもあなたの側にある真の豊かさ

          特別な愛から解放されることを望むことができるでしょうか

          私たちが一般的に愛と呼んでいるのは「特別な愛」と呼べるものです。それに対して、イエスや聖霊に象徴される神の愛は「普遍的な愛」と言えます。特別な愛が特別な対象に向かうのに対し、普遍的な愛はあらゆるものを包み込んでいきます。特別な愛は欠乏感を原因として根底に持っていますが、普遍的な愛は満たされたところから溢れるものなのです。その意味で私たちが体験するほとんどの愛は特別な愛と言えます。 特別な愛が私たちにもたらしていたものは、苦しみではないでしょうか。特別な愛から嫉妬が生まれます

          特別な愛から解放されることを望むことができるでしょうか

          役立たずに思える人の存在価値

          自分の周りを見ると、役立たずと思えるような人がいると思います。能力が低かったり、やる気がなかったり、居眠りばかりしていたり、仕事をサボってばかりいたり、自分の目からすると役に立っていないように思えるのです。 その人が変わってくれれば状況は好転するように思えます。自分より弱い立場にあるとすれば、その人を批判したり、叱ったりするかもしれません。 真実には、その人もあなたと同じ無限の価値を持つ神の子なのですが、その人の表面的な状況にそれは隠されています。 そのためにその人のあ

          役立たずに思える人の存在価値

          防衛しない態度とはどのようなものでしょうか

          防衛しない態度とはどのようなものでしょうか。私たちの弱さは私たちが知覚する脅威の前で、私たちに防衛することを要求します。防衛がなければ、弱い者の存在は脅かされるのです。 この世界には脅威が溢れているので、弱い私たちは少しでも脅威から守られるように、さまざまな防衛をしなければなりません。 防衛は私たちを疲れさせます。だから私たちは、防衛しないでいられる安らかな場所を求めるのです。防衛が必然であるこの世界から逃げ出したくなることもあるのではないでしょうか。 真の強さとは防衛

          防衛しない態度とはどのようなものでしょうか

          人はなぜ保守的になるのでしょう

          なぜ人は保守的になるのでしょうか。自分の信念を守りたいと望むのでしょうか。 それは、保守的でなければ失われるものがあると感じるからです。失うことに対する恐れから人は保守的になるのです。 新しい信念に心を開けば、今まで持っていた古い信念が失われるように思われます。 しかし、実際には失われるものは何もないのです。もし、私たちがすべてであるものとの繋がりを取り戻し、真の自己の豊かさに留まるなら、何が失われるというのでしょうか。 すべてであるものから、何を取り上げられるのでし

          人はなぜ保守的になるのでしょう

          一つのことをあなたに願います。あなたの愛を疑わないように。

          あらゆることを楽しむことができるでしょうか。いつも、何をしていても、心の深くに静かなワクワク感があり、世界が絶えず新しい体験をもたらしてくれるように思えることは可能でしょうか。 思い通りになるわけではなく、手に入れたいものを手に入れているわけでもなく、思いもしない問題が突然に生じることもあり、予期せぬ出来事に翻弄されているようでもあり、それらすべてはありのままでありながら、心が満たされていることは可能でしょうか。 急流を下る一枚の木の葉のように、流れに身をゆだね、その時の

          一つのことをあなたに願います。あなたの愛を疑わないように。

          恐れを体験していたことを忘れ去る時が来ます

          恐れと愛が同時に存在することはありません。恐れとは愛の欠如に過ぎないからです。 しかし、私たちは一度も無条件の愛から離れたことはないのです。 それなのに恐れを体験するとはどういうことでしょうか。 愛から離れたという信念が作り出す世界の中でのみ、恐れは体験されます。 愛から離れた自分を罪深いと判断し、罪悪感を抱き、恐れを体験するのです。 無垢なる神の子が罪に染まり、永遠なる者が限界に苦しみ、光である者が闇を味わいます。 太陽が闇を経験できるでしょうか。闇は光の不在で

          恐れを体験していたことを忘れ去る時が来ます

          争いの原因

          その人との関係において、お互いが「自分に必要なものが満たされていない」と感じる時、争いが生じます。 もし、どちらか一方が、自分に必要なものはすべて満たされていると感じているとすれば、争いが生まれることはあり得ないのです。 つまり、もし、あなたがそれらの欠乏感から解放されているとすれば、あなたが他者と争うことはなくなります。 どんな人といても、どんな状況にあっても、争う必要性が感じられなくなります。 欠乏感は真の自己の中には存在しません。つまり、争いたいと感じるとすれば

          争いの原因