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どんな世界が見えていようとも、平安に満ちた世界はあなたのものです
私たちは世界を見ています。どんな世界が見えているでしょうか。
罪や罪悪感や恐れからなる自我の世界が見えているでしょうか。それとも、聖霊の赦しの世界が見えているでしょうか。
私たちが持っている思考体系に従って、その知覚は生じます。
自我の思考体系から生じる知覚からは苦しみがもたらされ、聖霊の思考体系から生じる知覚からは平安がもたらされます。
知覚からもたらされる内面の状態を通して、自分の中にどんな思考体系があるのかを知ることができるのです。
思考体系を変えるために必要なことは、それをありのままに見るということです。
どのような思考体系を持っているかが問題なのではありません。それを隠し持っており、見ないようにしていることが問題なのです。
聖霊と共にありのままに見ればそこから解放され、隠したままにしておけばその状態が続くというだけです。
自我の思考体系を持っている自分を裁く必要はありません。ただ、聖霊と共にそれをありのままに見ることができれば、そこから解放されます。
聖霊の赦しに対価は必要ありません。それは無償で与えられるものなのです。
赦しとはそれが取消され、そこから解放されることです。
ちょっとした怒りでも、殺意を伴う敵意でも、そこから解放されるために難しさの序列はありません。
自我の思考体系から生じるどのような感覚も、ありのままに聖霊に手渡されるとき、その思考体系が入れ替えられながら取消されていくからです。
あなたが今どのような世界を見ていようと、その知覚を変えるための難しさの序列は存在しないのです。
ただ、それを隠さずありのままに見て、聖霊に手渡していくことで、そこから解放されていくからです。
しかし、それは自我の死を意味しますから、自我は激しく抵抗するかもしれません。ただ、自我がどれほど激しく抵抗しようとも、そこには何の力もなく、静かに見ているだけでその抵抗は消えてしまいます。
闇に光が入るならば、光は闇と争うことなく、闇を消してしまうようなものです。
聖霊は自我と争うことはありません。聖霊の光が自我の闇に届くと、その闇は自然に消えてしまうのです。
同じものを見てまったく違った知覚をすることができます。あなたを激しく攻撃する人を敵だと見る替わりに、その人を助けを求めて叫んでいる人と見ることができるのです。
それは努力をしてそうならなければならないようなものではなく、自然にそうした知覚となるのです。
今、あなたにどんな世界が見えているでしょうか。その世界に敵が存在していますか。その世界は恐ろしい世界ですか。
たとえどんな世界が見えていようとも、平安に満ちた聖霊の赦しの世界はあなたのものなのです。
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