『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』で描かれる2つの理想
『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』を観た。劇場でドラえもん映画を観るなんて20数年ぶり。
以下、ネタバレあり
のび太たちが辿り着いた<パラダピア>はみんな優しく、有能で、平等で、格差も争いもない理想の世界。その一方で、三人の天才「三賢人」が君臨する徹底的な管理社会であり、人工太陽から降り注ぐパラダピアンライトという光を浴びると、次第に人間らしさを失い、心の底から笑ったり怒ったりすることがなくなってしまうという恐ろしい世界でもあった。
ジャイアン・スネ夫・しずかちゃんが順調に馴染んで良い子になっていくのに対して、のび太はここでも上手く適応出来ない。だが「優等生になれない」ことが逆にパラダピアの闇を討つ鍵となる。
理想郷というと、どうも共産主義チックな世界になってしまうのはある種のお約束というか。パラダピアは人らしい心を失わせるという点で、どこかカンボジアのポル・ポト政権を彷彿とさせた。「今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ」という一節を思い出す。
(人さらいをしている描写もあり、北朝鮮を思わせるものがあった。)
物語では「2つの理想」が示されていて、のび太の成長が理想の変化を通して描かれてるように見えた。
一つは、欠点が消えれば良いという理想だ。理想郷ならパーフェクトな人間になれると夢見る物語序盤ののび太。自分も他人もみんな欠点が消えれば嫌なことは無くなる。いつかそんな世界が訪れたら良いと願う。世界の方が自分を変えてくれる。受け入れてくれる。受動的な理想だ。しかし実現は非常に難しい。
もう一つは、至らぬところも含めて受容したいという理想である。優しくなったジャイアンやスネ夫に抱く違和感。赤ん坊が可愛く愛らしいのは、すぐに転ぶからだ。欠点こそ人の愛すべきところである。ありのままの世界を受け入れる。こちらは能動的な理想。しかし実践は非常に難しい。
どちらも同じ"理想”。両者の違いは「愛される自分でありたい」か「愛する自分でありたい」かだ。作中ののび太が抱く理想は、パラダピアでの体験を通して前者から後者へと移っていく。
「ありのままの自分でいい」みたいなテーマはありふれていると言えばそうなのだが、ラストシーンは隠しておいたテストの答案を見られた「ありのままののび太」がママに叱られ、のび太が甘やかされない形で締めくくられる。ドラえもんにおいては見慣れた場面が、未熟な少年のこれからの成長を感じさせてくれるようでもあった。前向きな希望だ。
衝突を避け、不快を遠ざけ、不幸を予防する。嫌なところは見えないように出さないようにする。自分も含めて、多くの人がそうしたモラルを共有して今を生きている。快適だが、清濁併せ吞んで世界を愛して形作っていくような能動性にはどこか欠けている。受け身でいられる世界を築くためのプロセスだ。綺麗な理想的社会の孕む無機質な裏面を抉り出したディストピア系創作物は決して珍しいものではないにも関わらず、世の中はそんなゴールを目指してひた走ってきたようにも見える。そして今も近づこうとしている。希望は失わずにありたいものだ。
物語の大筋は心を打つものだったが、パラダピアの裏が暴かれる後半はキャラの心情描写や思想性のウエイトが大きかったので、欲を言うと個人的には飛行機を使った冒険活劇のシーンが多いともっと楽しめたと思う。そういえば今期の朝ドラも飛行機がモチーフなのだが、何かそういう波でもあるんだろうか。飛行機のプラモデルを作りたくなってきたので、今度買おう。
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