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どんな社会が良いのかな / どんな教育が良いのかな


自分は、お互いが気持ち良く、ただ素直に(共に)生きていけるそんな居場所が世の中に多くあればそれで良いなと思う。

多分、そういう場所は探せば色々ありそうなので、そういう意味ではもう自分にとっては充分良い社会なのかもしれない。

でもやっぱり社会の中では「経済を重要視」する事がプライオリティとして高いだろうし、教育も、どちらかと言うと、より経済発展や社会の問題解決をするための人材育成(主体的な人?)という視点は強いだろうなと思う。

別に今ある世の中を批判する気にも正直言うとならない。批判するのは疲れるし、批判される側の立場で考えても気持ちの良いものではないからです。但し、何かを「より良く」するための批判ならむしろ嬉しく思います。

ただ批判というと、自分の頭の中にあるイメージは、大体「人格」批判です。

(今の)世の中は、割と因果関係を明確に特定し、仮に問題があれば解決する事が求められるけど、もし何かのプロジェクトとか、責任が生じる活動をする際に、ミスがあったら、「それは誰の責任なのか?」という話になりやすい(皆の責任でも良いのになって思うのは甘いのかもしれないけど、そういうのを平気で言える場所があっても、少なくともその心意気を持つ事が許される場所があっても良いよね…)と思う。

この時に、責任の所在を特定し、問題の原因をある人(たち)だけに負わせる時、往々にして、「あの人(たち)は○○だから…だ」という定型文を耳にする事が多い気がする。この○○の中に入る言葉には、多くの場合、「人格」に関係する言葉が多い印象です。※あくまで個人的なイメージですが

また、「…」の部分には、「自分には関係ない」とか、「仕方ない」とかが良い悪いは別として多い印象です。

例えば、「あいつは能力がないから仕方ない」とか「あいつは人望がないからね」とかが挙げられる。

ここで、敢えて「無能」という言葉を「人格」に関する言葉と捉えているのは、(今の)世の中は、機能主義的な側面(例えば、あの人は○○ができる/できない)が強い傾向があるのかなと思うからです。

要するに、何か能力がある事が、その人の価値になりやすい社会だと感じるからです。

もちろん、社会が「分業」をベースに形成・発展してきているのだとしたら、能力は重要な要素だと思います。
ただ同時に、何かが出来る前に、「存在」自体に感謝しようとする気持ちも同じくらい大切なのではないかと思うのです。

これは、その人の存在自体にありがたみを感じる事を通して、お互いに気持ちの良い関係性が築けると思うからです。これは、そうシンプルな話ではないのかもしれないですが、その人の(隠れた)良さは、そうした関係性の中から見えてくる事が多々あるように思うのです。

その人の一面だけを見て、「○○が出来ないから、無能、不必要」といった評価を下す事は、機能主義的には当たり前なのかもしれないですが、存在論的な立場(まずは居てくれて有難いと思える人)から見れば、その人の全体性を見ることで、「○○は出来ないけど、○○なら比較的できるよね」という切り替えも出来るのではないかと思っています。

ちょっとした捉え方の違いでもっと優しく、もっと気持ち良く関係構築が出来るのかなと思います。 


自分は、本当に優秀な人間とは(この言い方はあまり好きではないですが)、

他人(ひと)の良さを発見したら共に磨き、
自分の良さを見つけ(てもらっ)たら、時に他人(ひと)からの支えを通してその良さを磨いていける人
」 

だと思っています。

※ただし、単純に「何かを頑張る」とか「上昇志向」が良いというわけでもないのは付け加えておきたいなと思います。


なぜなら、それは、必ず「自己完結」出来ない営みだからです。つまり、何かをする上で最も難しい活動の1つだと言えるからです。

自分とすら上手く付き合えない事がある人生において、他人と何かを一緒にするなんてもっと難しいと思うからです。

もしかしたらここで、逆に、「他人との方が適度な距離感があるから、上手くいきやすい」という人もいるかもしれませんが、毎回・毎回適度な距離感でいれるとも限らないですし、そもそも、自分との距離感(今日は自分の事を許せるなと思える日もあれば、今日の自分は嫌いだ!みたいな日もある)も常に一定では無いことは多くの人が経験していると思います。

その意味でやはり、

自分以外の誰かと何かを一緒にするのは、難しい行為

であると思います。


ある人が「近道こそ遠回り」という言葉を言っていましたが、この言葉が仮に正しいのなら、そして、この言葉を借りるなら、

「簡単なことよりも難しい方を選ぶ」

という考え方は、とても大切な事なのかもしれません(ただ、難しい過ぎるものは選ぶのは危険かもですが… そして、選びたくても簡単な事しか選べない人がいらっしゃるのも事実です)。

そういった選択をする事で、より達成感を得たり、他者とより協力しようとする気持ちが芽生えたりと嬉しい事や苦しい事が(1人でいる時よりも)多く生まれてくるかもしれません。

話が広がってきてしまいましたが、
自分は、経済とか機能とかそういうものは、まずは、「存在」から始まっているだろうと思っています。なので、その存在が輝く事で、「結果的に」経済とか機能とか社会とかが上手く回っていくのかなと感じています(しかしこの点、経済を回す視点と教育の視点の両方が大切で、それぞれが、それぞれで、同時に(相手の領域を否定しないで)アプローチしていけたら良いなと思います)。

自分が自分を認め、他人を認め、社会を認め、他人から認められ、社会から認められ、そして、自分から認められる。

そういう事が、普通に、自然に(ある意味で仮に思考停止しかけたとしても)、たいして無理をせずに、当たり前にできる世の中であれば良いなと思います。

綺麗事かもしれないですが、実現が難しいからこそ、目指したいなと思います。

キレイ事には、綺麗な事柄(理想)がたくさん詰まっているからこそ、それに裏切られ失望し、悔しさや憤りを感じた時、綺麗事という「皮肉」に変わっていくんだと思います。そしてその事で、ある出来事の実現を諦めていくんだと思います。でも本当は心のどこかで、実現できたら良いなと思っている(た)のではないかと思います。

だから、それを最後まで諦めないでも良い場所だったり、応援し合える環境、またはそんな(気持ちの悪い)事をそもそも一々考えなくても良い場所が多くあれば良いなと思います。

以上、これらの主張は完全に自己満足の類かもしれないですが、自分の目標である教育施設の設立に際し、少しでも自分の関心事を社会の関心事のレベルに還元して、まずは同じ志を持つ仲間たちと一緒にやっていけたらと思っています。



まだまだ教育施設設立までは長い道のりですが、少しでも自分たちの想いに共感してくださる方がいらっしゃれば本当に嬉しく思います。そういう方は、是非一緒によろしくお願いします!笑 またいつも応援してくださる方、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。