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慢心と謙虚さ

事業を始めたころ、多くの人に助けられた。開業するにあたって、どういうことをするべきか、準備すること、資金を得るための手続き、具体的に何が必要で、どういう順番でやるのが良いか。

教えてもらう一つ一つの情報が貴重だった。

何よりもありがたかったのはクライエントさんを紹介していただけること。

これがそのまま仕事になる。

だから、本当に感謝した。紹介してくれる人にも、クライエントとして私のカウンセリングを受けてくれる人も・・・

だから、遅刻もドタキャンも気にならなかった。空いた時間でやるべきことは山ほどあった。

しかし、時が経って、クライエントさんがいるのが普通になる。仕事も増える。

そうなると、急なキャンセルに腹を立てる。連絡が滞ることにも苛立ちを覚える。

私の中には
「オレが時間を割いているのに遅れるとはどういうことだ」
「オレの時間を無下にするな。忙しいんだぞ!」

という思いが渦巻いてきた。これが慢心というやつだ。

初めは謙虚な思いで仕事ができてきた。でも、慣れてくるとそれが普通になる。

普通になると、普通以下のことに対して慢心してしまう。

自分という人間の基準が上がってしまう。

この基準を私はプライドと呼んでいる。
プライドがあると、自分を祭り上げて他人を見下す。

そういう思いでカウンセリングをしてむうまくいかない。
クライエントさんに教えてやろう、私が変えてやろうという思いが出てくるから。

だから、そういう思いになったら一度立ち止まることにしている。
そして、まさに「初心」にかえる。

謙虚な思いを取り戻すためには、今の状況が当たり前だとは思わないこと。当たり前であることに感謝をする。日々の生活が当たり前に過ごせる。
朝起きたらご飯がある
蛇口をひねれば水が出る
誰かに叩かれたり、悪口を言われたりしない
昼寝できるベッドがある
おいしいコーヒーが飲める
もちろん、今日も仕事が与えられていることも

あげ連ねればきりがない。そういうことが普通であると思うと慢心が育つ。
慢心は雑草のようなもので放っておくと勝手に育つ。

だから時折メンテナンスが必要になる。それが私にとっては立ち止まり、自分を振り返り、感謝できることを探すこと。

こう書くと、慢心なんかまったくなさそうに思われるかもしれないが、そんなことはない。むしろ慢心している自分がいるし、時にその慢心を心地よいとさえ思う。そこには優越感があるからかもしれない。

慢心も謙虚さも両方とも自分の中にある。
できれば謙虚さだけで生きていきたい。

でもそれはできない。慢心がないと満足も充実感も得られないからだ。

カウンセリングをしたクライエントさんの心が安定してくる。不登校の中学生が学校に行き始める、引きこもりの青年が働き始める・・・成果はでる。言葉では「○○さんが努力したからですよ」と伝える。これは事実だし、本人の努力や忍耐なしに、精神面が回復するところはない。でも、自分の内面には「オレがカウンセリングしなかったらこんなに良い方向にはいかなかったぞ」と思っている自分もいる。

その自分はなかなか外に出ない。というより出せない。でもどこかで「オレのおかげだぞ」と心の中にある慢心な言葉を認めることがないと、私はこの仕事を続けることができないと思う。

慢心が必要な理由はもう一つある。それは自分を守るため。
社会人になりたてのとき、謙虚さは私の中で大切な美徳だった。父だったか大学の先生だったかに言われたことが心に響いていたからだと思う。

「最初はどんな苦労でも喜んでやるもんだ。なんでも学びになるし経験も必要だ。そのためには謙虚であることが大切だ」

たぶんそういう旨のことだったと思う。
そういう思いでいたから、謙虚であろうと思った。しかし、その思いは3か月もしないでもろくも崩れ去った。謙虚でいるとどんどん仕事が来る。自分の業務外の仕事から個人的なパソコンのメンテナンスまで。ちょっとこれは通常業務に支障がでる。謙虚であり続けると自分の時間を奪われてしまう。

そんな思いになったので、ある時から謙虚であり続けることを辞めた。守るべきものがある時に、謙虚さで明け渡すのは違うと思ったからだ。自分の時間を大切にするためには慢心も必要になる。

両方の自分があっていい。慢心と謙虚さ。私にはその両方が必要だ。大事なのはそれの使いどころを間違えないこと。謙虚になりすぎも、慢心になりすぎもよくない。

数年後に見たら間違っているかもしれないけど、今はこの二つについてはそういう考えでいる。

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