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足らない部分、
信用できないひと、大江戸線のホームに向かう下りのエスカレーターで、手すりを掴まずに後ろを振り返って話しているひと。
心配なひと、歩きスマホをしているおばあちゃん。
嫌いなひと、歩きスマホをしているおばさん。
嫌いな場所、混んでいる朝食ビュッフェ会場。
苦しい時間、話し手よりも先に言いたいことがわかってしまった後、その話の続きを聞き続けなければならないとき。
わたしをよく知る友人には「そんなことよりも好きなことについて考えたら良いのに」と言われる。わたしも出来ることならそうしたいとは思っている。
羨ましいひと、嫌いなものよりも好きなことについて話せる人。
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20年以上も連れ添っている「自分のこと」は自分がいちばんよくわかっているはずなのに、未だに想像をはるかに絶する失敗を犯すことがあるからゾッとする。わあ、わたしっていまだにそういう醜い行動を選択してしまうんだ、と己に驚愕させられる。失敗に気付き我に返ったとき、わたしは「反省しなきゃ」と口に出して己の行動を省みるわけだが、いつかまた同じような失敗をしそうで、そしておそらくするわけで、そういうときはさすがに、自分のことが嫌いになりそうになる。
もう、そういう自分のことを嫌いになることは諦めた。聖人君主の道も諦めた。時々、笑えない不備が見つかる「自分」と、わたしはきちんと向き合わないといけないのかもしれない。かもしれないじゃなくて、向き合わなければならない。向き合わなくてもいい、付き合っていかれればいい。ただ、目を瞑ってその場をやり過ごすことができても、それは解決したことにはならない。忘れたころにもう一度、似たような試練を与えてくるのが「人生」というものだと、20年以上も人間として生きていたのだから理解していて欲しいものだ。わたしは全然わかっていない。頭では理解していても、こころの奥底で納得できたわけではなかったのだ。
わたしが「反省しなきゃ」と口に出して言葉を零すとき、ほんとうは反省なんかしていない。もう一度同じような失敗を起こし、自分のことが厭になるのも、そういう「足らない部分」も自分の魅力の一部だと思ってうぬぼれているのかもしれない。
うぬぼれるのは勝手にしていただいていい。ただ、自分のことが厭になる機会はなるべく減らしていきたい。人間としての自分の不備を、足りていない部分を、少しずつでいいから乗りこなしていきたい。
人生は何度もチャンスを与えてくれている、と思わざるを得ない経験をしてきた。うぬぼれて目を瞑って「どうにかなった」と思うのではなく、己の解像度を高めるための材料にしていきたい。あ、自己啓発的とかそういう意味ではなく。
「生きたくない明日」って、無ければないほど良いでしょう。
おわり、またね。
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