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曖昧にすること

 「ぜんぶやめてぇなぁ」と思うことがある。
 通勤の電車の中。遊びに行く前に化粧をしているとき。喫茶店で珈琲が来るまでの時間。食器を洗うスポンジを泡立てている間。イベント帰りの終電待ちのホーム。太陽が沈むまでのトワイライトタイム。大人数で飲み会をしているその真っ只中。リラックスしようと久々に湯を張ったバスタブの中。
 蒸発したいとか、仕事をやめたいとか、極端に言うとしにたいとか、そういうわけではないのだ。ただ漠然と「ぜんぶやめたい」そう思うことがある。

 やめたいと思った時は具体的にやめる想像をしてみる。
 仕事をやめたら、多額の貯金があるわけではないからすぐに生活が難しくなってしまうだろうなぁ、とか。そもそもニートが向いていない社畜気質なので、何かしらの仕事はしたくなってしまうだろうなぁ、とか。
 趣味の創作をやめてみたらどうだろう。今つながっている知人達は創作で繋がった人が多い。御縁がなくなってしまうかもしれないなぁと思って勝手にさみしくなる。
 蒸発して、誰との繋がりも切ってしまったら。案外どうにかなるんだろうけど、そこまでの気力と「やめたい欲」ではないかもしれない。
 私は今までの人生で死にかけたことがないので、死はある種の救いだと思っている。いっそ死んでしまったらどうか。いや、この程度で救いを求めるなんて少し罰当たりな気がする。少なくとも、今ではない。

 壊れた蛇口から細く水が流れ続けるように、今日も私の「やめてぇなぁ」メーターは回り続けているが、修理をするのが面倒だからと放ったらかしにしている。何を隠そう、月末にサブスクの解約を忘れて、見もしないのにダラダラと月額料金を払い続けているタイプの人間だ。考え事のひとつやふたつ、いくらでも保留にできる。
 保留にしている考え事は山程ある。追い焚き機能が付いていない湯船に沈みながらできるだけ息を止め「なんで私は生まれたんだろう。なんで日本なんだろう。前世はあったんだろうか。なんで地球は、宇宙はできたんだろう。」とよく考える。なぜ生まれたかなんて親がいるからだし、親が日本人だから日本なのだし、前世なんてわかりっこないし、地球と宇宙の成り立ちが知りたければ湯船で潜水していないでインターネットと書籍の海に繰り出せばいいのだ。でもなんとなく、曖昧なままにしておきたい。事象に名前をつけてしまうとそれが「そう」としか捉えられなくなってしまう気がするのだ。
 
 私の「ぜんぶやめてぇなぁ」にも名前をつけてはいけない気がする。ただやる気がないだけかもしれないし、哲学的には名前があるのかもしれないし、もしかしたら病名がつくのかもしれない。でもつけなくていい。「ぜんぶやめてぇなぁ」は「ぜんぶやめてぇなぁ」のままでいいのだ。


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