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文章の個性

 最近、身近な人の文章を読むことが増えた。noteを更新していたり、ライターとして記事を掲載している人もいる。
 私は文章を読むとき脳内で音声再生されるタイプだ。自分の書いた文章はほぼ頭の中で音読しているし、人が書いた文章は、本人を知っていればその人の声で、知らなければその人や文章からイメージされる声になる。
 身近な人の文章を読むときはいつもその人との会話と照らし合わせながら読んでいるのだが、みんな違和感なくその人の声で、慣れ親しんだトーンで再生される。雑誌のインタビュー記事を読んでいる感覚が近いかもしれない。「この言い回し、よくしているなぁ」とか「おそらくこの単語を方言だと思っていないんだろうな」とか、若干の謎解きゲームというか、答え合わせというか。それが良い悪いではなく、純粋に素敵だなと思うのだ。

 私は文章を書くのが苦手で、ついでに喋るのも苦手なわけだが、苦手すぎて文章書く時は自分の喋り癖をできるだけ消したいと思っている。うっかりすると関西弁が出るし、語彙力がないせいで似たような意味の言葉を並べて平均をはかろうとする。どこにも影響しないエッセイなのだから、多少喋り言葉でもいいはずなのになんとなく小説を書くのと同じ気持ちになって書いている。エッセイを書く担当の自分を、小説を書く担当の自分が監督して「それは砕けすぎ」とか「読点が多いんじゃないか」とか口出しをしてくる。それに「うるせぇなぁ。そっちも読点多いくせに」と返すことになる。もちろん私の脳内でのイメージだから実際に分離しているわけではない。

 面白いことに、仲のいい人が書いた小説を読んでもその人の声では再生されない。二次創作でもオリジナル作品でもそれは同じだ。エッセイや作品の感想といった「本人のそのままの意見」と「創作物」は文体も構成も文章の勢いも違う。そう考えると私の書くエッセイは「創作物」なのかもしれない。

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