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鴨東物怪録1「寒の入り」

抽斗の重きを寒の入りとせり   森賀まり

 喧嘩をして家を出たのだから、贅沢を言っていられる立場ではないのは分かっていた。しかし、まさか空調もない下宿屋に厄介になるとは思わなかった。

 それは、地震があれば真っ先にぺしゃんこになることは間違いない、家賃三万管理費無しと立地の割に手頃なのも頷ける外観の物件だった。しかし、冬休みのうちに越してしまいたかったのと、不動産屋からの強い勧めで、その日のうちに契約を決めてしまった。

 名を諷詠館という。大層な名ではあるが昔ながらの下宿屋である。表には朽ちかけた木の板が掛かっており、近付いても読み取るのに苦労するほどのかすれた文字で、その名が刻まれている。

 京阪三条駅を降りると、真っ直ぐに下宿屋――諷詠館へ向かった。

 途中、大家の老婆からお守りを買ってくるように言われたことを思い出し、通りすがりの寺で適当なものを購入する。諷詠館に着いたときには、荷物の搬入はほとんど終わっていて、本棚や冷蔵庫など大きな家具だけ位置を整えると、引越し屋は早々に引き上げた。

 残されたのは、一人暮らしには広過ぎる和室に、段ボールが数えるほど、それと親に勘当されたばかりの大学生一人である。

 なんとなく寂しい気がして、諷詠館の中をぶらつく。一二階を合わせるとそれなりに部屋数もあるはずだが、人影は見えない。大家の老婆は建て替えたばかりの隣のマンションに住んでいて、ここにはいないと聞いている。
 もしかすると、このご時世にこんなところに住もうというのは自分くらいしかいないのかもしれない。

 仕方がないので、すぐ部屋に戻って荷解きを始めた。先述のとおり暖房設備はない。家電屋に行くのは後回しにして、外套を着込んだうえに手袋をしたまま作業をする。
 黙々と段ボールの中のものを外に出していると、何者かが部屋の戸を叩く音がした。開けると、病的なまでに色白な女性が立っている。隣室に住んでいるらしい。引っ越しの挨拶にお菓子を渡すと、手伝いをしてもらえることになった。これは助かる。

 早速二人で荷解きを再開したのだが、緊張してしまってなかなか話し掛けられない。
 当人も俯きがちなうえ、こちらとしても気恥ずかしいところがあるので、あまり正面から覗き込むことはできないのだが、相当な美人のようである。しかし、名前さえ聞き出せないまま、いつの間にか外は暗くなってしまっていた。今日のうちに家電屋に行くのは諦めざるを得ない。

 ふと、自分の歯がガチガチと音を立てているのに気が付いた。
 寒い。
 暖房もないうえに夜になってしまったので、寒いのは当然なのだが、それにしても寒過ぎる。そんな状況であるに関わらず、隣室の女性は寒そうな素振りも見せず、淡々と部屋を片付けている。
 このままだと風邪をひいてしまいそうなので、外套の中に更にもう一枚上着を着込んで、作業を続けることにした。

 そうして半ば凍えながら部屋を片付けていたが、それで捗るはずもない。重いものを動かすのが辛くなってきたので、小物から先に片付けることにする。
 そこで、文房具を勉強机に仕舞おうとしたが、抽斗がうまく開かない。力いっぱいに引こうと思いはするのだが、手がかじかんでいて、ただ抽斗を引くにも一苦労だ。隣室の女性にも声を掛けたが、嫌そうな顔をして首を振った。あなたがダメなら私も無理です、ということだろうか。

 ぶるぶる震えながら、前に後ろに動かせるだけ動かしていると、抽斗の中から「いたっ」という声がした。中に何かいるらしい。いるとしたら猫型ロボットだろうと、冗談のようなことを考えながら覗き込むと、ロボットではないが本当に猫がいた。黒猫である。

「ね、猫がしゃべった」驚きのあまり後ろに飛びのく。
「しゃべったやないわ、あほ。わしをこんなせせこましいとこに閉じ込めよって。わしゃ、主夜神の使いの猫やぞ」なんとかジンの使いとやらが、抽斗の中に引っかかったまま、関西弁で悪態をつく。
「閉じ込めた? お前が勝手に出てきたんじゃないのか、――たとえば未来とかから」もしそうだとすれば大歓迎である。ひとまずポケットからヒーターを出してほしい。
「勝手にやとぉ、失敬なやっちゃな。おのれの身の危険を感じて出てきたったいうのんに」抽斗がガタガタ音を立てる。中で暴れているようだ。
「……身の危険?」思い当たる節は無い。
「気ぃ付いてへんのんか、あほたれ。おのれ、もう少しで凍え死ぬとこやってんど」言われてみれば、いつの間にかさっきまでの寒気が消えている。それに、振り返ると隣室に住んでいるという女性の姿がない。
「まあ、ええわ。もう寒の入りやさかいなぁ、寒さにはくれぐれも気ぃ付けぇよ。ほなな」

 朝になって抽斗を開けると、行き掛けに寺で買ったお守りが入っていた。部屋を片付けている途中、なにげなく放り込んでいたらしい。昨夜のお礼も込めて、今後、このお守りはふかふかのクッションの上に丁重に祀ることにする。
 荷解きで出たごみを処理しようと戸を開けると、隣室から例の女性が現れた。しかし今度は、気まずそうに会釈すると、また隣室に戻っていってしまった。……どうやら隣室に何かが住んでいるのは間違いないらしい。

 そうしたわけで、引越し費用を貯めるためにも、早くこちらでアルバイトを見つけようと思っている今日この頃である。

檀王法林寺
京都市左京区にある浄土宗寺院であり、主夜神信仰で知られる。我が国において主夜神は、夜の守り神として信仰され、黒猫を使いとすると言われている。現在でも、檀王法林寺では、猫の刺繍をしたお守りや黒い招き猫などが購入可能である。
http://www.dannoh.or.jp/cat/cat01.html

( 次 → https://note.com/arbiter_pete/n/nd5719e33f042


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