見出し画像

シキ -1-

数回に分けて金井の過去を振り返る不定期連載シリーズ「シキ」。研究者として起業家として人として、これまで何を体験し、感じ、思い、今に至るのか。
本シリーズそのものがアラヤの巨視的な社史として、ビジネスインタビューでは語られなかったエピソードを中心に綴っていく。

金井:
生まれた時から現在まで辿っていく企画ということだが、過去を振り返ってもそうそう思い出す出来事などないことに気づく。

そもそもこれは誰が読むのかと問うたところで、目の前の編集者に「まぁまぁ」となだめられるだけだ。アラヤシキ初回のコンテンツがこれでいいのか疑問ではあるが、思考の整理になると自分に言い聞かせて取り組みたいと思う。含蓄の有無に関わらず、思いついた記憶をマイペースに語っていく。

あらかじめ述べておくが大きな期待はしないでほしい。


私は東京都の墨田区で生まれた。
経歴からだろうか、親族に先生や学者がいるのか問われることもあるが、そんなこともなくごく普通の一般的な家庭である。もっというと両親ともに若い頃よくヤンチャをしてたらしく、昔聞いた話は確かにアカデミックな感じではなかったように思う。

私が生まれた時どんなだったか、改めて親に聞いたこともないのでわからない。なので自分の記憶を元に辿っていく。

記憶とは面白いもので、幼いころを思い出すと、ある時を境にうっすらと連続的になる。ただそれまでの記憶はないというわけではなく、断片的なものがふわふわと浮いているような感じだ。そんな断片的だが鮮明な古い記憶が2つある。それが自分の人生にとって大きな影響があったかというと、あるような、ないようなよくわからないものになっている。

私の最古の記憶は母親にきゅうりを食べさせているシーンだ。
その頃母親のお腹の中には私の弟がいた。手元を離れたきゅうりが、母親を介して弟のもとに届くと思うとなんとも言えない不思議さがあった。
それが記憶の始まりである。

二番目に古い記憶は現在の興味につながっているものではないかと思う。そしてその時の情景がありありと残っている。
幼稚園に入るか入らないかの頃、家族旅行で北海道の阿寒湖に訪れた。
気候も景色も東京とは異なり、まるで異世界に来たかのようだった。
船に乗ったり、東京では見かけないモーターボートを間近に見たりとほとんどが新しい体験で楽しい旅行だったのだが、そこである生き物と出会う。

マリモである。

船を降りて歩いていると、大きな水槽があった。
魚が泳いではないかと探したが、水槽の中で動いているものは何もない。
生き物がいないのに何だろうと不思議に思った。
親に聞くとマリモという生き物が中にいるという。
再び目を凝らして探したが丸いものしかいない。親はその丸いものを指差した。

それが私とマリモとの邂逅だ。

その頃、私の身の回りにいる生き物といえば、犬や鳥や金魚など自分と同じように激しく動き回ってるものがすべてだった。
植物は街路樹や路肩の雑草などほとんど生活の背景のような、生き物ではなく物体として認識していたように思う。

犬小屋も鳥籠も虫籠も水槽も生き物を囲うものである。
その囲いの中に、このマリモという生き物、いや物体がある。
それだけでインパクトのある光景だ。

球状の見た目も他の生き物にはない非生物感に溢れている。
これを生き物とのたまう親を疑った。

その時ふと思うことがあった。
これが生き物なのだとしたら、自分と同じように何かを嬉しいとか楽しいとか感じるのだろうか。
そんな疑問が浮かんだのはその旅行が本当に嬉しく、楽しかったからなのかもしれない。似たような感覚がこの丸っこいものにもあるのではないだろうか。幼く、半径20cmぐらいのことしか考えていなかったろう想像力が急に膨らんでいったあの疑問と感覚が今なお鮮明すぎるぐらいに残っている。

このマリモとの出会いが生き物とはなんだろうと、立ち止まって考えたきっ
かけであった。
それからまたしばらくは空白が続くことになる。

あの時の経験は今に至る好奇心の源泉なのではと思う。
私の断片的なそれは、キュウリとマリモの緑な記憶である。

こんな話でいいのかわからないがこんな感じで進めていく。
このペースでいくと、今に追いつくのにどれぐらいかかるだろうか。
細かいことは気にせず気長にやっていくことにする。

最後にもう一度。

期待はしないでほしい。〈続く〉


Editor 浅井順也