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自己肯定感、自他境界線、他者との関わりについて気が付いたことや考えを綴り、幸福とは何か…

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自己肯定感、自他境界線、他者との関わりについて気が付いたことや考えを綴り、幸福とは何か、人はどうすれば幸福を手に入れられるのかを紐解く試みです。もしも私の拙筆が誰かの助けになれたら幸いです。

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何者かに成りたいのはなぜか

有名になりたい、その世界の第一人者になりたい、経済的社会的に成功したい、夢中になれる何かが欲しい。比較的多数の人は青少年期に今の自分とは違う何者かに成りたいという願望を持ちます。 これは以下の二つの要因から成ります。 ①今の自分が未成熟であること(≒今後大きく成長できると考えている) ②今の自分に満足していないこと(≒自己肯定感が低い) これが何者かに成りたいと感じることの原因です。突き詰めれば、今の自分に満足すれば何者かに成りたいとは思わなくなります。実際はこの原因には

    • 世界は自分を中心に回っているか

      親の役割は子を自立させ自分が亡くなった後でも生きていけるように育てることです。子は社会(=他者)との関わりを経て精神的な自立に至りますが自立の前には挫折があります。挫折とは世界が自分を中心に回っていないという現実を認めることです。一見するとそのような考えを持っていることはとても幼稚に写りますが、自立していないのですから幼稚なのは当然です。また、親が社会の厳しさから子を保護をしているため子は社会(=他者=世界)を限定的に捉えており、その世界では大概のことは自分の思い通りに物事が

      • 生きることに許しはいるのか

        自己肯定感が低い人は生きることを誰かに許されたいと考えています。自己肯定感は、本来は幼少期に親から感情に寄り添った接し方をされ自分はあるがままの自分で良いんだと感じる体験を糧として、自己同一性が確立される思春期に獲得するものです。しかし、幼少期にそのような体験を出来なかったなどの理由により自己肯定感が得られないまま成長すると、自分が存在していいのかという疑問を抱えたまま生きていくことになります。そこで思いつく頼りが他人です。自分で解決できないから他人の出番というわけです。

        • 人と人の境界線について

          自分と他者、他者と他者は別の存在ですから境界線が存在します。 理解しやすいように先ずは物理的に考えてみましょう。私という存在は自分の肉体で完結しています。着ている服であろうと自分で買ったモノであろうと、自分の肉体以外の全ての存在は私であるかと問われれば否です。血が繋がった親子であろうが善き友人であろうが学校/職場の苦手なあの人であろうが、自分とは別の存在で彼我には絶対的な境界線が存在します。自分の存在は自分で完結していて自分以外の存在はすべて他者であるという感覚は、物理的に

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          親ガチャという言葉について

          だいぶ旬を過ぎていますが今回は親ガチャという言葉について考えていきたいと思います。この言葉を聞いたとき多くの方が違和感を覚えていると思います。その違和感の正体は何でしょうか。 結論から言うと、言うこと自体が自らの未成熟を表していて幼い、というのが違和感の正体です。親ガチャは子が親を選べないことを表し、特に子が親に対し不満がある場合に使われます。子は親どころか生まれるか否かを選べません。しかし生まれてきた以上、なぜ生まれてきたかよりも何のために生きるかの方が重要です。精神的に

          親ガチャという言葉について

          人生の勝ち負けについて

          人生は勝ち負けです。 少し冷たく、或いは厳しく聞こえるでしょうか。 今回は人生の勝ち負けについて考えたいと思います。 勝ち組負け組とよく言われます。 みなさんも耳にしたことはあるでしょう。 この言葉は経済力や社会的地を他人と比べるときによく使われていると思います。 もちろん人生において他人との競争は在りますしそれがモチベーションを生むこともあるでしょう。 しかし他人との競争が人生の勝ち負けの全てなのでしょうか。 他人との競争に敗れた者は人生の勝者になることがで

          人生の勝ち負けについて

          思考と言語化

          どのように思考するか、それは人によって同じでしょうか。私の思考は頭の中でぐるぐると感情、感覚、知識が渦巻いていて(君の名はの依糸のようなラピュタの竜の巣のような•••)、言語化によって自分または他人が理解できるものに変換しています。最初から言語で思考している人もいるかもしれません。またはこれらとは全く異なる思考方法をしている人もいるでしょう。 少なくとも私のように言語で思考しない人にとって、言語化によって自分の気持ちを理解できるのは、まず自分です。というより自分のことを理解

          思考と言語化

          恥。そして公と私

          恥知らずという言葉があります。 恥ずべきことをして平気でいること、またその様や人を言います。恥知らずな言動をする人は、そのことを恥と感じないが故に恥知らずな行いをしています。自己は恥を感じないのに他者はそれを恥だと感じる。一体なぜこんなことが起こるのでしょうか。 恥とは隠部、つまり隠しどころです。分かりやすく例で考えていきます。人前で裸になった自分を想像してみます。例えば会社で仕事をしている時、あるいは近所のコンビニへ向かう最中に裸になった自分を想像すると私は恥ずかしいと感

          恥。そして公と私

          大人に成るということ

          大人かどうかということは自己肯定感に密接に関わりがあります。ここでいう大人は実年齢が高いかということではありません。成人年齢に達しているか、働いているか、家庭を持っているか、被保護者を養っているかということでもありません。他の存在を尊重し私的な事柄を無闇にあらわにしない状態のことです。一言でいうと精神的に自立している状態のことを言います。 人は最初はみな子供です。子供は世界が自分を中心に回っている/回ってほしい考え、自分の思い通りに物事が進まないと癇癪を起こします。年齢が進

          大人に成るということ

          自由と責任について

          自由とは自分が選択できるだけでなくその結果も引き受けることで初めて享受できるもので、昨今のいくつかのコンテンツもこの点に触れています。例えばシン・エヴァンゲリオンではシンジが「僕は僕の落とし前をつけたい」と言い、ブラックラグーンではフォンが「死に方をそして生き方を私だけが選んで決められるー最ッ高に猛るじゃないよ」と言っています(しかも見開きキメ顔で)。 仏教には自業自得という言葉があって、一般的には悪い行いをすると悪い報いが帰ってくることを指すことが多いですが、本来は善悪依

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