恥。そして公と私

恥知らずという言葉があります。
恥ずべきことをして平気でいること、またその様や人を言います。恥知らずな言動をする人は、そのことを恥と感じないが故に恥知らずな行いをしています。自己は恥を感じないのに他者はそれを恥だと感じる。一体なぜこんなことが起こるのでしょうか。

恥とは隠部、つまり隠しどころです。分かりやすく例で考えていきます。人前で裸になった自分を想像してみます。例えば会社で仕事をしている時、あるいは近所のコンビニへ向かう最中に裸になった自分を想像すると私は恥ずかしいと感じます。自宅でもないのに身体的に最も私的なものである裸をあらわにしているのだから当然です。他者から見ても同様です。会社や往来で裸の誰かをみたら、事情はともかく恥を感じるべき行いをしているなと感じるでしょう。裸は隠しどころなのです。

然るべき相手・場面であっても裸を見せるのは恥ずかしいと感じる人はいるでしょう。それは自分自分の持ち物である自分の肉体(=私的な事柄)は、自分と別の存在である他者(=公)へ容易に明らかにするべきではなく、また明らかにしたとして他者に受け入れられるとは限らない恐怖があるからです。このように裸を恥ずかしいと感じるのは私的な事柄を公へ明らかにしているからです。

精神的な面でも同じことが言えます。例えば仕事の議論の場で感情をあらわにするのは、私的な事柄を公にする行為です。もちろんその人がどう感じたかはその人にとってかけがえのないもので、自身で大切に扱うべきものです。ただそれを闇雲に公にするのは恥知らずな行いで、思ったことをそのまま言うなども同様と言えるでしょう。つまり肉体面にせよ精神面にせよ私的な事柄は公へは隠すべき陰部で、それを出来ない状態を恥知らずと言うわけです。そう考えると恥知らずな人間が恥を感じない理由は明らかです。自身が隠部をあらわにしている自覚がないからです。そうと知らなければ恥も感じようがありません。恥知らずと誰かに言われてもピンとこないでしょう。

恥とは隠しどころであり肉体的にせよ精神的にせよ裸の自分そのものです。裸の自分は私的なものであり闇雲に公にすべきではないのです。

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