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【新宿区】歌舞伎町には本物の女学校があって、思わず太宰治の女生徒を想像した。

東京時層地図・歌舞伎町編

・歌舞伎町のランドマークである新型複合施設ビル。

ゴジラの鎮座する「新宿東宝ビル前」

高さ130メートル、設計施工は竹中工務店。
武道館、東京タワー、東京ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドーム、福岡ドーム、東京ミッドタウン、新丸ビル、あべのハルカスなどを手がけるスーパーゼネコンだ。

現在地からは写真を撮ろうにも巨大すぎて収まりきらない。

ゴジラの爪がちらりと見えるの東宝シネマズ。スパッと切れる感じの硬い印象の建物が竹中工務店の特徴なのだろうか。このビルも鋭い。ステンレス製の定規みたいだ。

2019年4月から映画料金は値上げになり、1900円、さらに消費税値上げで今年中には2000円になるだろう。コーラとポップコーンのセットで3000円。カップルで6000円。ハズレが許されない。

映画を見てつまらなかったと言えない。マキシマイザーでは不満が募るばかりだ。サティスファイサーになるしかない。出されたご飯は美味しく食べる。

映画が好きな人はネットがますます主流になる気がする。

これからはネットは動画の時代だ!といわれて当時は全然ピンときていなかったけれど、動画が2倍速で視聴できることに気がついてようやくピンときた。

これは凄い。今まで動画はなんとなく焦ったかったけれど2倍速なら眠くならないし、1時間の動画でも30分で見れちゃうのが嬉しい。

昔あった新宿コマ劇場近辺は整備されて新宿東宝ビルになり、映画館のTOHOシネマズが入っている。
映画館といえば一昔前は座席が窮屈で、前の席にデカイ人が座ると見えなくなり、その日は台無しになるというギャンブル的なイメージがあったが今は違う。
先日、green book をTOHOシネマズのスクリーン9番で観覧。
ゆったりとした座席と大きなスクリーン、話も心温まる友情物語で大満足だった。

歌舞伎町は歓楽街から観光地になったと言われている。

15年くらい前の歌舞伎町は自転車でウロチョロしようものなら、まっ昼間であっても地廻りのヤクザに
「こんな所でチャリ乗ってんじゃねーぞコラァ」
とどやされた。

わりあい近くに住んでいたので、カレー屋とラーメン屋は良く行った。歌舞伎町の裏になるハイジアには釣具の上州屋とジーンズメイトとアウトドアショップがあったと思う。

ハイジアの真向かいにあったインド系のカレー屋は、ナンを乗せているザルに小さなゴキブリがウジャウジャいて、「うわぁ」と思いながらも全部食べたがそれ以来行かなくなった。

お腹が弱いので外出先のトイレスポットは確保していたが、そのひとつがハイジアの地下のトイレだった。いまは有料らしい。

ハイジアは健康ランドという名前とは裏腹に夜の近辺は不健康ランドだったようだ。売春で立っている女の人も結構いたし、そのへんで群れて酒飲んでゴロゴロしている集団もいた。

まずこれが現在2019年の歌舞伎町。

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青い丸が僕のいる所。新宿東宝ビルの真ん前にいる。新宿歌舞伎町交番の南は再開発によりかなり姿を変えた。
この10年でかなり変わったのでないか?アパホテルはあの場所にはなかった。2015年9月にできたようだ。


・そしてバブル期の地図

1984〜1990年に地図は作成されたとある。
多くの人の記憶にあるのはこれだろう。

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通称職安通りに長光寺という表記がある。
いまは長光寺は小さな区画であるだけだが、次の地図に行くと様変わりする。


・1955〜1960年 高度成長前夜の60年前


職安通りが狭い。あの道は高度成長期に区画整理されてできた道なのだ。

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そして長光寺のスペースはかなり広くとられているように見える。大久保病院の北側はほとんどお寺の敷地だったのだ。

今の歌舞伎町2丁目は当時の西大久保1丁目であり、建物はまばらに見えるのは焼け野原になってしまった後に復興したためか。
華僑が活躍し復興は早かったらしい。終戦が1945年だから10数年でこの形になった。コマ劇場のあたりは変わっていない。
靖国通りに路面電車らしきものが通っているのが見える。かつて都内中を走っていた都電だ。
区役所の南側から分岐しているが、北に伸びている方は線路跡のようなものが今でも残っている。


・なんと女学校があらわれた


こちらは戦前の約90年前。1928〜1936年。

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1937年に日中戦争が始まるが、この地図が作られた期間内に満洲事変があったりで徐々に政情が不安定になる頃だろうか。
コマ劇場は戦後、焼けた後に建てられた。ではそれ以前にあったのはなんだろう?

前にあったのは府五高女校。女学校だ。

まさにいま、90年前の東京府立第五女学校のまん真ん中にいるのだ。

現代では新宿女学園という風俗店が歌舞伎町にあるようだが、90年前は本当の女学校があったのだ。

ちょうどこの地図のできた1939年は太宰治の「女生徒」と言う小説が発表された時期でもある。

太宰治は女学生の手記をもとに書いたとされる。

太宰治 女生徒 より

お昼御飯のときは、お化け話が出る。ヤスベエねえちゃんの、一高七不思議の一つ、「開かずの扉」には、もう、みんな、きゃあ、きゃあ。ドロンドロン式でなく、心理的なので、面白い。あんまり騒いだので、いま食べたばかりなのに、もうペコになってしまった。さっそくアンパン夫人から、キャラメル御馳走になる。

午後の図画の時間には、皆、校庭に出て、写生のお稽古。伊藤先生は、どうして私を、いつも無意味に困らせるのだろう。きょうも私に、先生ご自身の絵のモデルになるよう言いつけた。私のけさ持参した古い雨傘が、クラスの大歓迎を受けて、皆さん騒ぎたてるものだから、とうとう伊藤先生にもわかってしまって、その雨傘持って、校庭の隅の薔薇の傍に立っているよう、言いつけられた。先生は、私のこんな姿を画いて、こんど展覧会に出すのだそうだ。

放課後は、お寺の娘さんのキン子さんと、こっそり、ハリウッドへ行って、髪をやってもらう。できあがったのを見ると、頼んだようにできていないので、がっかりだ。どう見たって、私は、ちっとも可愛くない。あさましい気がした。したたかに、しょげちゃった。こんな所へ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごく汚らしい一羽の雌鶏みたいな気さえして来て、つくづくいまは後悔した。

90年前はこんな感じの女学校生活だったのだろうか。

今は超高層のビルにパチンコ、風俗店、居酒屋、欲望渦巻く歓楽街。なんともすごい変化だ。

「テレクラ、テレクラ、リンリンハウス♩テレクラ、テレクラ、リンリンハウス♩」

と聞こえてきた気がした。それすらいまは無いのだ。変化は早い。弁財天が見守るのみ。

「バァニラ、バァニラ、高収入〜♩」というのも耳に残っている。

・関東大震災直前 1916〜1921年。約100年前。

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新宿は武蔵野台地の東側に位置し、固い岩盤の上にあるので、地震でも被害がすくなく、甚大な被害がでた銀座、浅草の繁華街が新宿に移動して、爆発的に栄えるようになったらしい。この地図はその前夜といったところだろう。

大久保病院は隔離所とある。明治12年に伝染病の治療所として開設されたとのことだ。大久保病院の南側に川が流れている。この道はやけにうねっていると思ったらそういうことか。現在の靖国通りの道幅は狭く、新宿通りのほうが広くて路面電車も走っている。学校が2校あり郵便局もある。山手の住宅街だった

・110年前は大村邸の広大な敷地。1908〜1909年

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110年前だ。女学校はさらに以前は大村邸だった。広大なお屋敷には池があり、そこは鴨場だったと書かれているサイトもある。
ちょうどこの池のあたりに現在の歌舞伎町弁財天が位置している。
弁天様といえば銭洗弁天など、水に関するところが多い。
弁天様を表すサラスヴァティは絵画では水辺に書かれており、水と豊穣の女神のようだ。

すなわち弁天様が祀られているところは、水に関係しているのだ。知らなかった、驚きだ。歌舞伎町弁財天は大正2年1913年に祀られたとのこと。

110年前でも大久保病院は存在している。伝統と歴史の大久保病院。

そして、やはり見逃せないのが、110年前の歌舞伎町の中心地にはなにがあったかというと大村邸だ。

大村家は肥前国大村藩の藩主で、倒幕で活躍したとのことで華族となったとある。

大村藩は現在の長崎県にある。幕末の1863年の石高は2万7000石。かなり小さい。肥前国といえば鍋島藩だがこちらは36万石とかなり差がある。

大村家が華族になったのは1884年だそうだ。

一番下の画像は1884年までの地図だそうだから、その当時はまだここには住んでいないということになる。1885年以降にこの土地をあてがわれて引っ越してきたのだと推測する。

かなりの大豪邸だ。この近辺には藩主と思われる家の家がこの年代に多く点在する。大名屋敷に住んでいたのを引き払って移動したのか。

(※明治初期は幕府側が追いやられて、薩長土肥の有力者が都内に豪邸を構えています。明治維新は薩長のクーデターといわれていますが、地図を見るとそうだろうなとは思います。)

西側、現在の西武新宿駅近辺には「種苗会」と書かれている。植物の種を通信販売をしてこれが日本最初の通信販売だったとか。

さらに気になるのが大村邸の南。西方寺というお寺がある。今のヤマダ電気や新宿アルタの一角ではないか。
驚いたなこれは。

西方寺は明治31年に火災、道路拡張のために大正9年に杉並区へ移転したと、西方寺のホームページには書かれていたが、
お寺後には学校が入っているし、道路が広くなるのはその後なので、なにかあったのかもしれない。

西方寺の新宿アルタでは30年近くにわたり、笑っていいともが全国放送された。
タモさんもなんとなく僧侶っぽいことを考えると、新宿の西方寺跡からかお昼どきに全国放送で説法をしていたのだとオカルト好きなら解釈して居酒屋トークにしているのかもしれない。

(※東京は寺が多く、寺あとに何かが建っていることは普通のことでした。)

・140年前は畑、雑木林、杉林、池があり。1876〜1884年

1877年には西南戦争が起こっている。この戦争によっていわゆる不平士族の反乱は収束する。これにて武士の時代は完全終焉した。

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杉林があり、畑があり、雑木林があり、お寺がある。ちょっと田舎ならよくある風景だ。
場所的にハイジアの南側は田んぼだ。あの辺りは線路側から見るとグッと下がっている低地だ。
雑木林に囲まれた田んぼで田植えをしている姿、近くには池があって鴨がやってくる。
北の家からは手ぬぐいを被った人が出てきて

「おーい、昼飯しようぜ」

これがほんの140年前、いや関東大震災直前にはかなりの大きさになっているのだ

たった40年ほどでこれほどまでに大きく変わる街はあるのだろうか?さらにそこから100年経った今も発展し続けている

いかに新宿が爆発的に発展したかがわかる。全く想像できない。

予測は無意味かもしれない。


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