「オトナなんて大キライ」
「ママ以外は私に近づくなー」
幼い頃の大人に対する壁はとても分厚かった。
毎日会う幼稚園の先生にも慣れるのに半年かかるくらいだ。他の子はとっくに馴染み朝母親と離れるとき一悶着してるのは私だけ。それくらいガードの固い子だった。
一番の虫唾が走った出来事は今でも鮮明に覚えている。出店が並ぶイベントで「お嬢ちゃん、おいで!じゃんけんに勝ったらお魚無料であげる!」と10人程の同じくらいの子どものいる場に誘われた。拒否したが、「しないの?!もったいないよ~」と無理やり参加させられた時。
今考えればご厚意で誘ってくださりありがたい気持ちも湧いてくる。しかし当時はしんどかった。
なぜ、私に対してズカズカと接してくるんだろう。安易に関わらないでほしい。その場のノリで私の心を開けると思うな。この世は全部大人の思い通りの世界だ。そんなことを淡々と考えていた。
相変わらず自分より年上の大人嫌いは治らなかったが時が経ち進路を考える時期。特に将来やりたいこともなかった私は幼い頃の漠然とした夢を頼りに彷徨っていた。一人っ子の私は友達の妹や弟の面倒を見るのが大好きだったことから保育園か幼稚園の先生かな~と。
そこから保育所へ職場体験へ。だが、違った。直感的に違うとすぐに感じた。今一度考え直した時、まず頭に浮かんだのは小二の頃の担任の先生のこと。
小学生になりむしろ大人嫌いに拍車がかかっていた私。そんな時女性の新任の先生に出会った。初めはその先生にも目を付けられないようにまるで怯えて頭を下に向ける犬のように過ごしていた。
一年経ちその先生は担任ではなくなった。これでどうせ終わり。次の先生にも目を付けられないように過ごさなきゃ。そう思っていた。
それなのにだ。
その先生はすれ違うたびに名前を呼んで手を振ってくる。予想外だった。
何故……たくさんの「分からない」が広がりグルグルしていた。一年間目を付けられないように過ごしてきたのに、たくさん生徒がいる中で私なんかを相手するのは何故だろう。大人は自分のことで精一杯だから担任ではなくなったら関係ないのでは。大人に対して希望を持ってなかった私。
それなのにずっと私に対するその対応が続くものだから困惑すると共に心のもじゃもじゃが少し解けるような、変な感覚をもった。
そう私はその先生に、大人に興味を持ったのだ。少しずつ時間をかけて近寄ってきてくれる先生。いつの間にかその先生が大好きになっていた。そして卒業するまでずっと気に掛けてくれていた。なんなら卒業した後も。
物心ついた時には感じていた。「こんな大人になりたい。」
だが、憧れにしている大人がいても何になりたいかどんな職に就きたいかは分からなかった。
「私はただ小さい子と関わりたいのではない。先生のような大人になりたいんだ」
そう気づいてからは大学で色々なことを学び実習等から子ども一人ひとりと向き合える職を考えていった。辿り着いたのは障がい児さんの先生。
子ども一人ひとりのことを知りまずは寄り添う。そこから楽しみながら好きなことを伸ばしていき更には興味や関心を広げていく。1個ずつその子のペースで「好き」を展開していく。私は少しずつやりがいや誇りを持っていった。
しかしこの世界皆が同じ意識を持っているわけではない。直接的に「しっかり正しい」に持っていくというやり方を実践している人もいる。その方が早く身につくかもしれない。そういうやり方もあると思うし否定はしない。この世の中自分が100%正しいとも思っていない。しかし私はその考えを持っている方と噛み合えなかった。私はまだまだ未熟だ。憧れが大きいほど理想と離れてしまうと苦しいしつらい。
様々な葛藤もありつつ一方の軸がダメになってももう一方の軸でなんとか回せていた歯車もついに噛み合わなくなった。私が嫌いな大人に自分は絶対なりたくない。
私は挫折をした。
いつかまた誇りを持つことは出来るだろうか。今はただただ靄の中を彷徨う毎日だ。視野を広くして様々なことを気にかける余裕は無いけれど彷徨うだけの「自分ばかり」ではなく少し立ち止まって周りをキョロキョロするくらいはしないと幼い頃の私に激しく嫌われそうだ。
どうにかなるだろ~精神で余裕があるふりをして「わぁ(そんなこともあるよねえ)」「わぁ(しんどいなあ)」「わぁ」と言いながら一呼吸おくと何だか和らぐ。
ゆっくりゆっくり時間をかけて……
原点に戻るとこれが今の私に必要なあるべき姿なのかもしれない。
特にこのコロナ禍に崩れそうな人たちは私だけに限らず他にもいると思います。そういった人たちには儚さが感じ取られます。一呼吸おいてゆっくりゆっくり時間を過ごしていきましょう。儚さを魅力に変えられる日がいつか来ることを願って……
先生へ
私の自慢の教え子!そう言ってくれましたがその教え子は今社会的にみると落ちぶれてしまっています。その言葉を裏切ってしまいごめんなさい。でも、私が先生に貰ったものは今でも生きる上で大切なものです。落ち込んでいる時後ろから「わっ!!」と驚かしてくれたこと、鮮明に覚えています。私は落ち込んでいることを先生には話していなかったし面にも出していなかった。でもいつもしないような事をしてくれてその行動はたまたまかもしれないけれどとても救われました。些細な行動がすごく救われることもあるということを先生に学びました。私は先生になりそのことを頭に置いて過ごしていたけどどうだろう。それが活きていたらいいなあ。もらったもの少しは次の世代の子どもたちへ繋げていけたかな?小学校を卒業するまでゆっくり時間をかけて歩み寄ってくれてありがとう。卒業した後もずっと気にかけてくれてありがとう。
私のこれからがどうなるかは分からないが前職に出会えたことは誇りに思っている。
ー私がこの職を選んだわけ。それは先生みたいな大人になるため。そして先生から貰った分を今度は私が届けていくためだ。ー
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